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概要

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藩政充実期の高鍋ところに特色がある。しかし、高鍋藩においては前記のごとく、早く義倉の名目になじんだこともあり、また社倉用の田を義倉田といったことなどから、義倉も社倉も同義語として使用している。次に示す義倉蔵も社倉の意であろう。寛政九年九月十六日比木社江御参詣御帰掛、椎木郷弁古向坂郷義倉蔵御覧被v成候。(続実録、巻之八)このときは社倉の創設者千手八太郎が説明役としてお供をしている点からも社倉と見てよい。上江にも義倉があったことが続実録巻之十に見える。上江庄屋の義倉米の拝借取り扱いが悪くとがめられたという記事である。社倉・義倉・義倉田の記録の見えるのは、高鍋近郷では川南・椎木・高城・上江・三納代の各郷であるが、恐らくすべての郷にも設置されていたものであろう。社倉法は一種の共済制度である点に注目すべきものがある。宝暦十三年(一七六一二〉十一月に始められた足軽役米足軽役米法法も共済制度の一っと見ることができる。参勤交替のため、一年おきに出府する藩主の供を命ぜられる者は、栄誉ではあるが、経済的には大きな負担であった。そのための旅費規定として「江戸詰諸渡方」「東国道中諸渡方」「御参勤郷中夫馬渡方」などがあり、そのほかに特別手当としての「催銀しもあり、「反銀」の減免という減税法も行われていた。しかしもともと薄給の足軽たちの困窮ぶりは深刻であった。そこから社倉法を準用し、足軽同志が薄禄の中から少額の出米をし、藩も多少補助して江戸勤務足軽を経済的に援助したの第4章が「江戸足軽役米法」である。少し長く難解な部分もあるが、「続実録、巻之一」のその部分を書き下し文にして示すこととする。同年十一月十五日江戸勤足軽定人数に相成り、御当地(高鍋)勤の者共より出米仕り(以〉ハ窮)候。己来足軽因究に及ぶに付、近来の出米高十石に付弐斗余り差出候(を)此節より十石に付壱斗づっ差出し、御上より(足軽〉士宮人前、畠地物(麦)弐俵宛も下し置かれ候はば、仲間出米の余り十石余もこれ在り候。此の余米を以て社倉法の遺意に倣ひ、廉直人材役(貸)掛り仰せ付けられ、貧困の足軽へ軽き利米にて借渡し候はば、高利の他借の苦を逃れ、漸々身上取り直し候ょう相成るやと、用人・奉ぞんじより(勤欠カ)たつうま行中存寄差出さる。小頭中よりも、江戸足軽辰午(宝暦十・十二年H参勤は隔年)両年、差引四人減少。此の入用銀壱貫弐百五十五匁三分九厘六毛を、江戸雇一足軽四人給金五百九匁九分三厘弐毛。右差(四)引て七百四十五匁三分六厘四毛を、五十四匁かへ赤(米)拾三石七円八斗余)斗九升に成る。是も畠地物弐俵つつの代定御供足軽三十人へ士宮俵づっ下し置かれ候て、差引赤四込(俵)と壱斗九升御徳分の由、書付け差出す。右御取用いに相成り、用人中・奉行中へ請込支配都合、仰付けらる。(敬?横尾氏l按、明和年中に至り仕法差略これ在り。小頭詰込と相成る。当時役米と称し候は此の基本なり。)(要旨)江戸勤務足軽は一定人数となったので、高鍋勤務足軽が一O石につき一斗ずつ供出し、藩から足軽一人につき麦二俵下付し、それを社倉法と同様に、貧しい足軽に少しの利米で貸してやれば高い利子の借金に苦しまなくなり、身上も取り直すようになる。江戸勤の足軽の定員を四人減じ、代わりハ四〉に江戸で足軽を四人一雇一い入れると、七四五・コ一六四匁倹約になる。その倹約ハ八斗余)分で赤米を一石五四匁の割で一三石七斗九升買うことができる。これも足軽三O人に麦二俵ずつの代わりに赤米一俵ずつ支給してもなお赤米四俵余倹約231になる計算である。これを根拠として実施した(計算に傍注の誤がある。)