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概要

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し世高壱万石の領地、四つにもせよ、五つにもせよ免を定る時も、年貢の外に五厘通り加へおさめしむべし。五厘とはわずかに壱石に五合つ与のつもりなり。壱万石にては元米五拾石なり。されど定たる年貢さへ民力一ばいにて貢きすれば、其上一一ハ僅といふとも甚難儀なるよし云て必うけかわぬべし。其時誠実を述べて、是、君の御用にひでりあらず、異目、水、阜の為の備なる故に、君よりも是ほど出したまふの旨を告げ聞かせ得心せしむべし。さて又君へおさむる四、五千石の物成の内にても、又五厘通りを除きあとを納むべし。其除く所の五厘と合せて一分となる。是士宮万石の高にては元米百石なり。是を其所の庄屋の蔵にあづけ置くべし。(中略)さて貧しき民あらば其分限相応を考えて、其組合の民、或は親類の請合を以て是を貸し、冬に至りて利息を加えて収むべし。(下略〉と具体的にその方法を述べている。高鍋落が社倉を設置したのは、後述のとおりであるが、囲籾、用心米も既に社倉的なものと見てもよいであ近第4編ろう。農民救済のための社倉(義倉ともいっている)の設立を見たのは天明ぞんじより八年(一七八八)五月で、福嶋山西代官千手八太郎の義倉存寄によってである。「社会加条目草案」についての存寄の回目頭に福嶋山西三方郷中、義倉之儀御願申上候処願之通被成御免、下々一統難有奉存候(自求録上)。と述べている。またその中で、坂田字平次が郡代在任中に義倉を取り立て、農民は義倉の名目になじんでいるが、朱子のつけた名目に従って社倉というのがよいとしている。「社倉条目草案」についての存寄は、同五月二十五日付けで上申し、簡単で従いやすいようにすることが肝要であると述べ、一五条としている。そのうちの重要なことは次の三点であ230る一、返納は一斗につき五合の息を加え毎秩返納すること。一、貸し渡しは平等であるべきこと。一、社倉米の基礎確立のうえは籾にて固い置くこと。(千手輿欽著、自求録上)その存寄はそのまま承認され、「福嶋山西社倉条目」として実施するよう下げ渡された。その後、福嶋ばかりでなく、新納・野別府方面にも作られた。高鍋近郷では、高城郷の下鶴門の社倉谷に新堤を郷中自飯でこしらえ、そこに社倉用の新田を作り、上納した残りを社倉の土台にしたいと願い出て許されたという寛政三年(一七九一)二月九日の記録がある(続実録、巻之七〉。寛政五年十二月には野別府川南郷に義倉を取り立て、義倉田を開発している記録が見える(同巻之八〉。義倉と義倉田のことはこの後しばしば記録に出てくるのであるが、義倉は社倉と同義語として用いられている。社倉条目草案を作成した千手八太郎が同義語として用いていることは、さきに引用した文のとおり「義倉之儀御願申上候処」といっていることで明らかである。しかし、同文中に義倉之名は先年坂田字平次殿、愛元御郡代役内、義倉之取立有ν之候後、院中之者義倉之名を能く存じ罷在、社倉之名は一向存候者無v之、義倉と申候得ば早く合点仕り候様御座候に付、義倉一一テ可v然哉と奉存候得共、朱子之名に依る社倉と被v成可v然奉v存候。といい、やはり「社倉」の名目を使うべきだといっている。本来、義倉は、古く律令時代に行われたがその後廃絶し、江戸時代に復活した。義ぎえんきょしゆっ倉は富者の義掲や醸出による穀物を官府が貯蔵管理して窮民に給与するのである。社倉は多数の者がそれぞれ醸出した穀物を自主的に処理する