ブックタイトルac_cho_0007_takanabe
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世しゅうとめ姑を流罪に、父親を一通塞に処し、医師、村目付まで処罰している(問、巻之二)。近それより四年後の明和八年四月、産婆みつを大坂で、当時としては破格の三人扶持で召し抱えて高鍋に招いている。仕度金や旅費も銀二五O匁と高額で、服装は徒士の妻と同等の格式のものを用いさせ、夜間や遠方の場合は駕龍の使用も許すなど手厚く待遇している。当時の産婆は「取揚げばば」と呼ばれた。当時産婆の技術も幼稚であり、妊婦自身の手で出産を済ますことも多かったから、産婆の召し抱えは意義が深かった。明和五年(一七六八)六月、野別府高松村(美三洋)疫病の救済の二O軒が疫病にかかり男女五二人が寝込んで田植えができないというので近村の者に植え付けさせ、その後水が無く枯れてしまったという申し出があり、これを救済した。安永八年(一七七九)七月にも疫病が流行し、日光院と域内の円実院で祈薦が行われ、流行病除けの御札が配られ、貧しくよるベなき者へ施薬が行われた。当時の最にんじんしんせき高薬とされた朝鮮人参は、明和元年(一七六四)一月、親戚の尾張侯から苗を贈られたのを栽培し、藩庫に蓄えてあり、随時に救療に用いられた。種徳のとき、寛政九年(一七九七〉閏七月疫病流行、困窮の者服薬等え致さず、死に候者これ在りと聞かせられ、御気の毒に思召され候。依って兼ねてよるベこれ無き者には薬代等下され候問、服薬候様仰せ出さる。医師中へも、遠方にても差越し手抜かりなく療治候様仰付けらる(続実録、巻之八)。というように医薬の支給や医療の手が差し伸べられている。産婆を召し抱える第4編災害の対策災害に対する救済もゆるがせにできないことであった。台風の襲来は日向国の宿命である。台風という表現はまだなかったが、年表に見るごとく、大風、大風雨、洪水の記録はおびただしい。そのほかの災害もまた多い。慶長十九年(二ハ一四〉から慶応三年(一八六七〉に至る二百五十余年間に、五、000石以上の損害を被った災害は一一回も起こっている。しかし享保・天明の全国的な大飢鐘にも餓死者のあった記録は幸いにして無い。そのつど、出穀の停止、他領からの穀物の買い入れ、年貢の軽減、延納、救助米の支給、拝借米の貸し出しなど、さまざまな救済措置がとられていて、その記録は枚挙にいとまがない。そのうち、しだいに制度化されていくようになった。しかもそれが共済制度的な方向に進んでいったことは注目すべきかといもみことである。囲籾・用心米・社倉あるいは義倉・義倉田、および足軽役米法、これらはいずれも、為政者と農民の双方が籾や米を出し合い、農民も特定の者でなく相互に出し合っているのである。後に述べるように坂田字平次が福嶋郡代であったときに義倉を始め、千手八太郎が福嶋山西代官であったとき、社倉を始めた。二人が山崎闇斎門流であったことに起因すると見てよいであろう。か』こ川いもみ飢餓にさらされる人々のために、藩庫を聞いて救米を円円wh申守庁小支給し、あるいは豊年になって返済させる拝借米にしても救済には限界がある。そこで備荒貯蓄として考案された一つが囲籾・囲米であった。続実録巻之一の明和元年(一七六回)四月十九日の項に「御囲籾割付拝借御免」と、囲籾貸し付けのことが出てくるから、このころには囲籾の制度ができていたことは明らかである。(一七七四)五月三日には、当年囲籾升目壱俵三斗五升入(同上〉。同十月十九日228安永三年福嶋囲籾当年囲迄四年分ニ相成。三ヶ年分ハ御蔵上納。壱ヶ年ハ郷