ブックタイトルac_cho_0006-3_takanabe
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を召し返し、秋月太郎左衛門の家に入らせ、大坪喜右衛門・泥谷監物両人から源太夫に「藩内から即刻立ち退き、二度と帰って来てはならぬ」との命令-伝えさせた。源太夫は「落命とあらば謹しんで承る。ただし、再び帰つてはならぬ、速やかに藩境を出でよということは納得致しかねる」と語気激しいものがあった。太郎左衛門は「必ずしもそうではなぃ。ゆっくりと旅装を整えられよ」といい、源太夫は辞去した。討手は帰途を要してこれを討ち取った。源太夫は太郎左衛門の従兄であり、妻の兄である。その翌日、入江三左衛門が夜にまぎれて出奔した。その二日後の十二日秋月太郎左衛門も出奔した。太郎左衛門は秋月蔵人の妹をめとっていたがこれを捨てて去って行った。翌年は正保と改元されたが五月入江三左衛門の弟斎宮が出奔した。城下町の財部(高鍋)の城下町の町割は初代種長のころ行われ大火その他たであろうと前に書いたが、このころの財部の主要な出来事を記すと次のようなことがある。秋月氏入封時代の高鍋寛永十年三六一二三)一二月二十八日に城下町の大火が起こっている。城下市街で七O戸、石原八戸、小丸二五戸、道具小路のうち市街地に近い順礼堂一戸、合計一O四戸の大火であり、十一月には蚊口浦の市街がかや全焼している。当時はすべて萱ぶきであったから、一度火災が起こると災害は大きかった。特に井戸の少ない蚊口浦の場合は手の施しょうがなかった。ようやく復興したものの四年後の慶安三年(一六五O)正月には城下市街に再び大火が発生し、市街で九O戸、石原・上下蓑江・祇園社・寺五O戸合計一四O戸が焼け二人が焼死している。寛永十九年は日本全国が飢鍾であった。正保三年(一六四六)十一月域内の愛宕神廟を黒谷山の頂上に移し、蓑崎の丘上の地福寺の東南に天神廟を造営した。初め種長が移封のとき日ごろ崇信していた天神・愛第2章ほこらごうし宕・岩屋・高祖の四神を地福寺のそばの小さな洞に合記していたのを、このときそれぞれ洞を造営して祭ったのである。明暦元年(一六五五〉正月十三日、江戸藩邸が焼け、貴重な文書や器物が皆焼失してしまった。種春の二男半之丞が発狂して焼いたもので、半之丞は翌年五月石河内に送られ、死に至るまで幽閉された。万治二年三六五九)三月、種春は参勤のため江戸に上り、代わって世子種信が帰落した。種春は十月十五日麻布久保町の藩邸で没した。歳五O。下谷広徳寺に葬り、遺歯を高野山に納め位牌を成慶院と財部の大竜寺に安置した。成慶院は秋月氏の筑前時代からの高野山宿坊である。法名、大洋院殴古巌宗帆大居士。種春の治世は権臣の政権争いに終始し、いたずらに人材を失い藩治の暗黒時代で、治績の見るべきものはなかった。種春没す183