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概要

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世ったのを知った又左衛門は、配下の垣原茂右衛門一党の者に命じ六野原に要撃させた。帯万はなぎなたをふるい奮戦して死んだ。うえがたしたがた当時秋月又左衛門派を上方、坂田大学派を下方といい、両派の闘争をうえがたしたがた上方下方騒動といった。又左衛門は父権之助とともに権勢に誇り、その派の者たちには倣慢のふるまいが多く、下方の者たちは常に身の危険を感じた。寛永四年(一六二七)坂田大学の一味同類五三O人が脱落逃亡したが、そのうち殺害された者が多かった。同年九月に家老内田頼母が妻子を連れて出奔し、福嶋に住んでいたその母親も家財をまとめて逃亡した。十月には家老秋月蔵人が蚊口浦から出奔した。近第4編寛永五年八月釆女種貞が大坂で亡くなった。四O歳であった。寺町浄国寺に葬られた。この春、種春が参勤を終えての帰途、大坂を過ぎるとき、種貞は神代コ一右衛門勝安を従えて小舟に乗り種春の船を訪うた。小すおうべに舟は蘇枯紅(赤紫)の幕を張っていた。権之助は種春に知らせることを拒んだ。種貞は久しく付近をこぎ回っていたがあきらめて帰って行った。種春はその舟を見ていたのであったが、父種貞の舟とは知らなかっなにわはいかいた。美三洋港に着いて「先日浪花の港で紅幕の小舟で俳佃していたのはだれであろうか」と近侍の者に聞き、父であることを知って驚き、「どうして知らせなかったのか」と強くなじり、明年の参勤には必ず会えるよう取り計らうことを命じた。それから幾ばくもなく父の許報に接した種春の嘆きは大きかった。権之助一味の横暴の一例である。種春は後にそうがんじ見性山山中市巌寺を麻布六本木に建立し父の菩提を厚く弔った。秋月文左衛門これから後、白井権之助・秋月又左衛門の勢力に圧の専横服せられ、それなりに藩内は平穏であった。寛永九年三六三二)肥後の加藤清正の子忠広七二万石が改易となり、種春も34ヲ町、i'AJ諸大名とともに出兵を命ぜられ、騎士五O人を始めとし、鉄砲一O五挺やりのほか、弓、槍、長万、持筒などで武装した総勢二、O八七人の軍勢で出発した。幸い忠広が幕命に従ったため別条なく十二月十六日帰藩した。寛永十一年には幕命によって宗旨改めが財部でも始められ、同十四年三六三七)十一月には切利支丹の島原一撲が起こり、秋月又左衛門を大将として物頭白井源太夫・坂田宮内・入江角右衛門らが鉄砲一00挺の歩行足軽を率いて出陣し、翌十五年二月末、原城の落城によって帰藩した。これから切利支丹の取り締まりは一段と厳しく、領内に外国船を見張るための遠見番を設けた。財部には鞍掛遠見番(南九州大学のあまつけたぶとき東)を置き、そのほかには甘潰(川南町)櫨時(幸脇)にも遠見番を置いた。福嶋には郡本、都井、市木の三か所に設けた。同二十年三六四一二〉正月、福嶋へ唐船が漂着し、藩主みずから出馬して取り調べを指揮した。五月福嶋代官入江角右衛門は唐船漂着の際、人質を取らないうちに漂着船が船出してしまったため、証拠人をもって幕府に報告し得なかった責任を負うて江戸で切腹するという事件が起こった。182七月十二日、家老秩月権之助種盛が六三歳で病没した。権之助は内問善兵衛の第六子で白井河内の養子となり、白井姓を名のったが、種春付きの家老として権力をほしいままにし、旧来の家臣で彼の意に背く者はことごとくこれを追い、かりそめにもいさめようとする者があれば、公へいそ〈命をもって論じたため、落内は扉息し、いつからか、み*すから公族と称し秋月姓を名のり、食禄千石を食んだ。藩史一班には彼のために追われ、あるいは談せられた者は五五六人に及んだと記している。十月秋月又左衛門は功を争って落命と偽り弟白井源太夫を殺した。源太夫と又左衛門は島原の乱の先陣の功を争って仲たがいし交際を断っていたが、源太夫が福嶋代官であったとき、又左衛門は君命と偽ってこれ