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概要

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秋月氏入封時代の高鍋まちなかえ、街中の旅館に案内し、藩邸に入ることを拒んだ。種貞は自分の相続権を主張し、襲封を幕府に願い出たが、既に種春襲封に決定していてそれを動かすことはできなかった。老中の土井大炊頭利勝は種貞に、「あなたのいうところはもとより道理のあることであるが、既に決定されていることを変更することはできない。強いて争えば秋月氏の存続にもかかわりがあろう。そのうえ、譲る所は他人ではなく、あなたの子ではないか」と諭した。種貞は強いて争わず、退いて神代=一右衛門を伴い大坂に住み、落政から遠ざかった。白井権之助種盛は種貞の附家老坂田五郎左衛門と権力を争い、種貞を政権から遠ざけるのと政敵を除くことに力を入れ、まず藩主の命と称し、内田士口左衛門に討手を率いさせて坂田五郎左衛門を討たしめた。内田吉左衛門は五郎左衛門とともに種貞の後見として、初め権之助に対抗していんせいいたが、中ごろ変じてこれに従い、口実を設けて国光村(川南)に隠棲した。権之助はまた落命と称して、元和二年(一六二ハ)、萱島善右衛門・大坪甚右衛門を検使として遣わし士口左衛門を自刃させた。次いで板ちゅう浪清左衛門に不義ありとしてその一族など=一六人を諒した。更に旧来の重臣、内田善兵衛、入江主水らも病没し白井権之助の政権は揺るがぬものとなった。第2章寛永元年(一六二四)種春は十五歳になって初めて高鍋藩に入った。当時の制度では元服以前に江戸をだい,せんのすけ離れることは許されなかったのである。翌年信濃長沼城主佐久間大膳亮まさよりむすめひっぱ〈正頼の女を夫人に迎えた。そのころ高鍋藩の財政の逼迫はその極に達し、寛永二年、藩士の家禄三分の一を削り、更に佐久間氏の勧めにより、寛永三年に家禄三分の一を借り上げることにし、特命をもって秋月文左衛門を帰国させ命を行わせた。又左衛門は権之助の嫡子であり、権うえがたしたが品上方下方騒動勢をほしいままにし、みずから私月を称した。又左衛門が命を伝えると、藩士に異議を唱える者はなかった。しばらくして、又左衛門に党する者の借り上げがほかの者たちより低いことが明らかとなり、家老秋月蔵人の一門の者たちが衆議のうえ、又左衛門の偏頗を正そうと図った。最も強硬なのは坂田大学であった。「落命を曲げる者は国賊である。国賊は早く除かねばならない」と論じた。秋月蔵人は衆議に従う旨を述べた。福嶋都合内田仁右衛門父子は口実を設けて秩月蔵人を福嶋に追うおいむすめむこた。又左衛門は蔵人の甥であり女婿でもあった。大学は蔵人の妹の子で又左衛門とは従兄弟になる。仁右衛門は蔵人の兄で、いずれも内田善兵衛の子孫であった。坂田大学は同族の坂田勘解由、藤内膳らと又左衛門を倒そうと血盟を結び、事を謀ろうとした。同志に秋月兵部がいたが、にわかに志を変えて密告したため、大学はかえって又左衛門のために殺されてしまった。〈み同志の坂田勘解由、藤内膳ら、大学に与する者は身の危険を感じ藩外に出奔した。板浪帯万は蔵人の兄で板浪家を継いだが身の危険を感じて難ひ'てか・えを佐土原に避けていた。妻子を連れて出奔しようとし、密かに財部に還宅金,m'reS4・e坂田大学の墓(新富町奥〉181