ブックタイトルac_cho_0006-3_takanabe
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世大庄屋は既に隠居していた由で、江藤利右衛門という者とその下僕一人を伴って帰って来た。それで江藤利右衛門へ、蚊口方面から椎木村比木の辺りまで地形そのほかを見分させ、椎木庄屋や川原庄屋宅へ宿泊させて指導を求めた。利右衛門は一か月近くも現地について懇切な指導を与え、七月二十三日帰って行った。藩では同二十六日勘定奉行二人のほか内藤進・内田善四郎・坂田用蔵・野口善四郎を掘貫き新井手御用掛に任命し着工準備をさせた。そして同九月四日着工することになり、比木社で着工祈願祭を行った。椎木郷中の農民も、かねてからの念願の掘貫き井手なので祈躍のため手軽踊を奉納したいと願い出ると直ちに許可せられ盛大な着工式となった。しかし、種茂は天明七年から江戸住いとなり完近第4編成には至らなかった。その後幕末の文久の初め(一八六一)井手方に就任した鈴木逸雄が工事の再聞を建議し、勘定奉行財津吉一が賛成し、後に家老となった城勇雄もまたその議に加わり開削工事を始めた。慶応四年ずいどうまで八年間に経費四万両を注ぎ込んだが、わずかに隆道一つが貫通したにすぎなかった。初め鉱夫の岩盤掘削の技術は未熟で、一寸(コ一センチ)掘り進むのに一日かかるというありさまであった。後に火薬によっしんちよくて爆破して掘削する爆裂法を知るに至って、工事は驚くほど進捗し始め一同は大いに喜んだ。ちょうどそのとき、廃藩の命が出され工事も中止せざるを得なかったのである。計画当初には、もしこの用水路が完成すれば、上は岩淵から下は菖蒲池に至るまで、単に干ばつの憂いがなくなるばかりでなく、畑地を沃田にすることができるという見込みであった。しかし子細に点検してみると、測量に誤算があって、当初計画のままでは水位が低く、岩淵付近は水が乗り難いということが分かった。しかし、安蔵より下は皆濯甑できるということであった。これは城勇雄の回想であるが、後に木城町椎木の山口弘康が新たに計画を立て、明治四十四年九月十七日比木神社において起工式を行い、同四十五年(一九一一一)六月九日隆道が貫通し、同十七日に通水式を行い、同年七月十一日し多んζうに比木神社で説工式が行われた。当初着工からすると二四五年後である。180第二節藩政の混乱男の子を持たない種長は、慶長十三年三六O八)三うねめたねさだ月、次女のヲチョウ姫に婿養子として釆女種貞を迎えあきよした。種貞は豊前国馬ケ岳城(行橋市)の城主長野三郎左衛門鑑良の嫡子で、その母は種実の四女であり、種長の妹であるから、ヲチョウ姫には従兄に当たる。後見の間家老は坂田五郎左衛門と内田吉左衛門であった。コ一年後に男児が生まれ、慣例に従って黒帽子と名付けられた。秋月家では跡取りとなる男児には黒帽子と名付けることになっていた。黒帽子とは筑前の山の名であるという。黒帽子は長じて長門守種春と称する。種長は種春の生まれた翌年大病を患ったが、それも癒え、種春が四歳になった慶長十八年九月には種春を伴って江戸に上り、大御所家康とおめみえ将軍秀忠への御目見を済ました。種春つきの家老は内田権之助(後、白井家を継ぐ)お守役は大坪太郎左衛門であった。種春の御目見が済むのを待っていたかのように種長は翌年の慶長十九年六月、江戸邸で亡くなった。四八歳であった。白井権之助種盛は種春が家督を継ぎ、封に就く手続をとった。七月になって種長の死を知った家老坂田五郎左衛門は、藩中に世子種貞が家督を継ぐことになったと称して藩政を執り長野氏の旧臣神代三右衛門を召し寄せて種貞に随行させ、襲封の手続のため江戸に赴かせた。白井権之助はこれを芝口に迎後継藩主擁立の紛争