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概要

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勘右衛門水路取水口完成したのは慶長十七年(一六一二)の春である(見聞年代記)。長友勘右衛門は石河内の人であるが、小丸の西部一帯の畑地を水田とし、更にその付近から東方の耕地にも用水路を造って水田としたなら、米の生産は相当に豊かになるであろうと思った。しかしその水路を開削する良策がない。そこで藩の祈願所である比木大明神に祈願をかけようと思い立ち、真心をこめ身を清めて百か日の祈願を始めた。満願の暁に、太平寺川上を水源地とすることをはじめ、通水の順路に至るまで手に取るように大明神のお告げを被り、初めて夢がさめたように覚えた。それで実地について踏査してみると一々符節を合わせるかのようであった。勘右衛門は宿願成就の信念に満ちて神託をつぶさに述べて用水路開削のことを藩主に願い出た。藩主種長はこれを裁可したのみならず、勘右衛門にその事業遂行の重任を命じた。勘右衛門は感激おく所を知らず、昼は出でて工事を督励し、夜は家人が眠るのを待ち、神託による水路の方向や開削の方法などを綿密に定め、寝食を忘れて工事の成就に励み多くの歳月を費やしてついにかんがい用水路を完成する至った。その潅概する水田は、「藩史一班」によれば「沃回数十町、大凡千石ヲ収穫ス」と記し、則松長繕の「比木道之記」によれば「およそ三千石」、昭和九年一月建設の「長友勘右衛門君水路功秋月氏入封時代の高鍋第2章績記念碑」によれば「現時瀬田百八十町」とあり、ならばおよそ三、六OO石の収穫である。也」と記している。一町歩二O石の収穫「藩史一班」は「今ノ畑田是藩主種長はその功を貰し、徒士格とし、勘右衛門と名のらせ禄五O石(藩史一班四O石)と屋敷を与え丁役を免除した。しかし勘右衛門は禄は半高を受け、座食を恐れ、願い出て催司役を与えられ、その子孫は惣催司を世襲した。催司とは、万治年間(一六五八1六O)までは後世の圧屋に相当したが、寛文三六六一(J七二)ごろ庄屋と改め、別に惣催司を置き、美々津と蚊口に催司を置いた。「さんし」または「さんじ」と呼んだ。長友家に伝えられたところによると、公事の伝達役であったという。勘右衛門はまた比木大明神の神徳をあがめ、毎年「お里回り」のときは自邸に神輿の渡御を請うて神楽を奏するのが恒例となり、現在も十月二十八日には神輿の渡御がある(藩史一班・郷友会報告第五九号)。広谷用水の取入口は木城町川原であるが、高鍋町も大きな利益を与えられている。この用水路の建設は明暦三年(一六五七)原次郎左衛門の建言によって始められた。椎木村の比木の西の岩盤をうがって小丸川の水を通す用水路を造り、比木・岩淵以東の濯慨を図り、水田を拡大しようというので、十二月二日に着工した。しかし岩石ばかりで工事がはかどらないため、中止されるに至った。これが広谷用水路開削の最初の試みであった。この用水路開発の事業は、第七代種茂のときにも計画された。種茂は曲一豆一後の竹田藩に掘貫き井手によって河水利用に成功した庄屋のあることを聞き、天明二年(一七八二)坂田用蔵と野口善四郎両名を竹田藩に派遣し調査させ、事情によってはその庄屋の招鳴も交渉するよう命じた。六月二十九日両名は竹田から帰任したが、掘貫き井手を手掛けた竹田藩の広谷用水事始め179