ブックタイトルac_cho_0006-3_takanabe
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藩政建設期の高鍋種弘は享保二年(一七一七〉十一月二十二日、神代甚五右衛門と守部久内の両名を山林仕立奉行に任命し、高鍋近在の山野へ杉・檎・格・椋・茶・油木類を植え付けさせた。櫨は高鍋近郷ばかりでなく、諸県六ツ野(国富町)道筋に享保十二年四OO本、同十七年には、道から二O聞のところの左右両側に植え連らねさせた。川南自費大明神への道には、享保十五年三月、持田郷鬼ケ久保から自費前の坂まで、道の左右に土手を築き、櫨木一、八OO本を人足一、三九O人に植え付けさせた。これらが成木となると、その実から磁を作り、その収益は農民たちをも潤した。享保十五年十月、櫨実一斗につき生蝋二五匁が運上と定められた。(拾遺実録、巻之八)もひろげ畳表の原料の七島薗栽培は、宮田川下流の茂広毛、小丸川北岸、鴫野川沿いの上塩入、下塩入、堂薮の辺りであった。この辺りは、満潮のとき海水の入る所で塩入りといわれ、水田に不適であったが、七島蘭は育った。七島蘭は裂いて乾燥させ畳表に編んだのである。製紙材料の梶(格)の植え付けも奨励され、河川の両岸や土手などの空地を利用して作られ、天領本圧の問屋、和泉屋に売っていたが、後に紙を作ったほうが有利なため、各所に紙すきを営むようになり、高鍋でやぶは小丸上の西側、錦竹(ほうらい竹〉薮に固まれた地域で行われることになった(宝暦二年、続実録)。四相次ぐ自然災害第3章種弘の治世には不幸にも天災地変が相次いで起こった。享保元年(一七二ハ)、同二年には霧島山の大噴火があり、享保二年正月三日には「霧島山焚(噴火〉。小石飛び諸県までは暗夜の如く人々燭を取る」と本藩実録にある。城下町の大火が三回、風水害は記録に残っているものだけでも一七回、享保十七年(一七三二)には近畿以西には未聞の鐘の害があり、いわゆる享保の大飢僅が起こった。高鍋藩の幕府への被害届け出は一万五、八四八石余であり、幕府から米の払い下げを受けるまでには至らなかったが、幕府から三、000両を借り受け急をしのがねばならなかった。翌年は米価が暴騰し、江戸では米商人宅の打ちこわしの騒動が起こったほどであった。米一石銀三01四O匁(角川日本史辞典)が一五O匁にもなったのであるから一躍四倍ないし五倍以上になったのである。享保十八年正月二十四日去年より凶年につき御堀の菱実、百姓共取申度く願の通り相済む。是年所により米、石に百五拾匁程。佐賀領餓死十ケ二一ニ。(本藩実録、巻之六)佐賀領では二割ないし三割が餓死したというのである。「徳川実記」には、全国の餓死者は九六万九、九OO人と記されている。高鍋藩で餓死者は出ていないが、御堀の菱実を取ったほどであるから、その惨状をうかがうことができる。219