ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

ac_cho_0006-3_takanabe

世七)の人給帳には、市木本牧、市木相ケ崎、都井御崎、権代、永田、池尾、黒井の七牧の責任者である牧部当を次のように挙げている。福嶋所々御牧部当三石七斗五升倣仰木佐藤宇兵衛三石七斗五升柿駄相ケ崎山口弥五兵衛三石七斗五升側桝御崎門川数右衛門四石五斗慨棚、氷田掃部四石五斗僻…鍋倉与右衛門四石五斗制細金川市兵衛四石五斗側恥尾国府多左衛門上が役料、御牧とは殴様の御牧のこと、部当は責任者の役名で、別当が転じたものである。近第4編藩営牧場はこの時代には岩山牧と福嶋七牧があり、後に宝暦十年(一七六O〉に市ノ山牧が設けられ九牧となる。種政は里牧(百姓牧)を奨励し、後には八O余の里牧ができたといわれる。元禄七年(一六九四〉閏五月一日の調査によると、福嶋院中の馬の総数は六、一O六頭を数えている(拾遺実録巻之二)。その翌年元禄八年十二月に天草代官から馬一五O頭の購入申し込みを受けた際は、「他領に馬を売ることは兼々堅く禁止しているので」と丁重に謝絶している。馬はもと軍馬として用いたが当時は農耕用として極めて重要な労働力であった。農業振興に対する種政の意欲の強かったことを示している。馬数の調査がしばしば行われた。その増加状況は三五五頁第出表のとおりである。種弘もまた種政の遺志を継ぎ牧畜に力を入れた。享保二年(一七一七)十一月二十四日、士ロ左衛門以下二ニ人を新たに岩山牧番に任命し、野地五反ずつを支給し、元からの牧番や牧掛りの者とともに牧場の土手の修復を行わせ、修復に多くの人足を必要とする場合は野別府代官に申し出ることとした。また、山犬が牧場に入った際は、牧掛り全員が、暮六ツから明け六ツまで、月夜にも松明をともし、一度に六度づっ夜回りをする手はずを定めるなど、牧場管理を強化している(拾遺実録巻之六〉。218換金作物の栽培自給自足の時代で物資を充足する上から主食以外多くの作物が栽培されたが、換金作物、いわゆる金もうけになる植物の栽培が奨励された。ろうそ〈はじかじこうぞうるしそうしゆる蝋燭の原料となる櫨の実、製紙原料の梶(格)、漆、綜(捺椙)、茶、しっといひげからむし桑、畳表の材料である七島蘭・小髭、綿布材料の綿、麻、苧、杉、槍などである。これは一般の需用も多く、商品として換金価値が高く、藩の大きな収益となり、農民を潤すことにもなるのでその栽培を奨励した。元禄十四年(一七O一〉九月二十七日、これらに対する運上が定められた。(要旨)茶は屋敷に仕立てたものは運上免除、高付畠、古場畠、山野に仕立てたものは運上五分のつ漆・格・櫨は屋敷のものは運上免除、古場畠・山野のものは三分の一運上。杉・槍は三分の一を仕立てたものに与えた。(拾遺実録、巻之四)宝永元年(一七O四)三月九日鴫野樹木畠樹木の分取除き大豆畠に相成る。尤もくろくろ猪・櫨仕立候様仰出さる。(向上〉と、運上を定め、畠のくろ(隅や畔〉に植えさせている。