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概要

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1はぎか持田羽坂井手修復享保十三年(一七二八〉十二月十三日、持田羽坂井手修復(拾遺実録、巻之八)高鍋地域外にて川南竹浜新井手(享保十年)野別府井手修復(同十五年)日置三納代開田(同十六年)イロ間血)1除1馬場原川除修復享保六年(一七二一〉八月十二日、馬場原川除洪水にて破損に付馬(拾遺実録、巻之七)落政建設期の高鍋場原向川原へ掘川在v之。2冗ノ下・萩原・高城薮ノ下川除享保十三年(一七二八〉四月五日、高城郷薮ノ下井持田郷はげの下没、萩原中洲川除人足千三百八十三人(拾追突録、巻之七)3小丸後大川除享保十六年(一七三一)四月七日、人足一万四千五百九人小丸後大河除在ν之。(拾遺実録、巻之八)これらの開発によって耕地面積は相当増加したと思われるが、詳細な記録がない。牧場の開設第3章農業生産の増加に牛馬、特に馬を重視し、藩営の牧場を設けるとともに里牧(百姓牧)も奨励した。日向は古来、馬産地として知られていた。日本書紀推古紀によると、うたげそがのうま二十年(六一二)春正月、宴の席で大臣蘇我馬子の献じた歌に対して、〈れまさ真蘇我よ、蘇我の子等は、馬ならば日向の駒、太刀ならば呉の真鋤、宜しかも、蘇我の子等を、大君の使はすらしき。と返歌を賜り、蘇我一一族を天下第一のものにたとえて褒められた。当時、日向の駒は天下第一の駒とされていたのである。高鍋藩では早くから馬の生産に取り組んだ。「見聞年代記」に慶長十四年三六O九)己酉春、野別府に於て岩山牧始まる。牧別当河野孫四郎。とあり、「高鍋藩史一班」巻三に伝へ言フ、古、鎌倉氏(源頼朝〉佐々木高綱ニ賜フ所ノ名馬ハ此ノいけづき地ニ出ヅ、俗ニ之ヲ池月牧ト謂フト。(口碑)(原文は漢文)。と興味深い口碑を記している。するすみかげすえ平家物語に出てくる有名な話で、名馬磨墨に乗った梶原景季と字治川に先陣を競うた佐々木高綱の乗った馬が、都農町岩山牧産の「池月」であったというのである。都井岬牧場の御崎馬福嶋に藩営牧場を初めて開設した時期は明らかでないが、従来定説の観のある元禄十年三六九七)八月説(「御崎馬」黒木正雄著)よりももっと古く、「隈江家記」に記されている寛永二十年(一六四三)の人給帳の福嶋の部分に「一福嶋所々番二拾八人同牧別当五人」とあるから、このとき既に五牧あったことを示している。寛文七年(二ハ六217