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概要

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世ためである。なおこの水路で見逃がせぬのは、橋はすべて串間産の砂岩が用いてあることである。この石材は砥石に適するを以て農民の鎌研ぎ用にする意図なのである。これは高鍋藩農政の特色の一つで、後には広範囲にわたり用水末端の小潜に至るまで使用された。近時フリュlム管使用が多くなるにつれてようやく失われつつあるが、高鍋高等学校校庭にその幾分が保存されている。この特色も河内山清八の創意であろうか。と、優れた創意が-記されている。近第4編E)1除河川の護岸工事は極めて重要なことであった。高鍋・上江・持田の平地は小丸川と宮田川とによる沖積平地であり、両河川の氾濫は、田畠の流失や荒廃、農作物の被害はもとより家屋や人命にもかかわり、川除工一Jm事は開田にも劣らぬ重要な事業-4R也p・J悼みhLWeFh,-、F ia叫一議であった。11馬場原下など三か所川除元禄十二年(一六九九)一水路の石橋に用いた福島石(高鍋高校〕月二十五日馬場原下弁荒原薮三所川除在ν之、人足千三百人。(拾遺実録、巻之一二)12安蔵川除元禄十四年(一七O一〉十月二十三日、安蔵川除奉行惣都合、小坂六郎左衛門へ仰付らる。(拾遺実録、巻之四)また記録には見当たらないが「佐久間土手」のことが語り伝えられている。佐久間願母については既に述べたが(一九六頁参照〉明らかに高鍋に住んでいたのは元禄六年五月から元禄十五年間八月であるからその聞に作ったものであろう。毎年台風による小丸川の洪水が平原の南から、おんづきの池を通って塩田川にあふれ、高鍋城の大手まで氾濫するのを防ぐために、高鍋西小学校の東から小丸出口まで築かれた堤防がそ216れである。右のほか、高鍋三郷以外に、吉岡城・薮川除土手掘り切り、がある。第五代藩主種弘の事業は次のとおりである。堤1檎谷の上の古堤享保九年〈一七二四)十二月十四日、槍谷の上古堤修復、人足七百廿一人。(拾遺実録、巻之七)槍谷新堤、雲雀山古堤繕い享保十年十一月三日繕被仰出。右のほか高鍋地域以外では福嶋本城上田谷新堤(享保二年)同都井中石ケ野谷新堤(向上)椎木岩淵堤波(同九年)椎木にたり堤(同十年)2(向上)イロノ、ホ日置新堤高城、氷山新堤(同椎木寺山新堤及び井手(同十一年)井手と開田(同上'.J"'-上)トE