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概要

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藩政建設期の高鍋第3章3堤出来水守給回八畝相渡る。長宝寺堤元禄七年(一六九四〉四月十三日、長宝寺堤出来。(拾遺実録、巻之二)奉行、河内山清八、人足五千人。(同上、J(本藩実録、巻之五)4日置新堤元禄十三年(一七OO)一二月二十一日、日置新堤出来、右新堤下長谷、堀之内まで水掛り聞く。回壱反水守給相渡る。(拾遺実録、巻之三)5持田槍谷堤元禄十四年(一七O一)十月十一日、持田檎谷堤普請始まる。長三十六問、人足二千九百七十五人。十二月二十三日、持田槍谷堤出来る。〈本藩実録、巻之五)6上江わし谷堤(修築〉元禄十五年(一七O二)九月二十八日、上江わし谷堤弁手溝崩れ新溝立六十問。(拾遺実録、巻之四)7谷坂堤宝永三年(一七O六〉十月十九日、谷坂堤出来、人足千弐百四人(拾遺実録、巻之五)8雲雀山堤宝永四年(一七O七)正月十五日、雲雀山堤今日打立つ。奉行中元寺庄内・久庭源内、御目付後藤喜平次、総人数千四百十九人(拾遺笑録、巻之五)9しげはざま重間谷開田宝永二年(一七O五)一二月二十六日しげはざま谷内五、六反開田願出御免。(木市裕実録、巻之四)印西別府新井手西別府は現在川南町に属するが、た。西別府・竹鳩方面に利用せられ宝永四年(一七O七〉三月一日、西別府新井手普請、人足千二百四十人。(拾遺実録、巻之五)以上は高鍋地域に関係のある堤や井手である。ほかの郷では椎木岩淵堤凌(元禄五年)福嶋西方姥ケ迫堤(同七年)平田垂門新井手(同十三年)野別府新井手修復(宝永二年)野別府名貫新井手(向上〉イロ一"ホ日置水末開田(元禄十四年)ト平田中河原開回(同上)野別府白蜜開田(向上)野別府竹浜村新回開発(向上)チリヌ楠子(師)谷仁君谷開田(同十五年〉などの事業が、本藩・拾遺両実録に記録せられている。「高鍋藩史話」に貯水池築構の開祖というべき功労者は河内山清八である。この人は秀吉との和平を称えて切腹した恵利内蔵助の一族であったが、三代種信の時帰参を許されて土木事業に貢献するに至ったのである。その創意と見られるのは、最初の谷坂堤よりの配水路である。主水路を低い処に通じ、支水路を高い処に通じて、支水路の余水を又主水路に注ぐように設計してあり、主水路の処々に膨らんだ箇所が作ってある。これは農民の馬草の洗い場ともなり、馬の洗い場となる215