ブックタイトルac_cho_0006-3_takanabe
- ページ
- 4/46
このページは ac_cho_0006-3_takanabe の電子ブックに掲載されている4ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ac_cho_0006-3_takanabe の電子ブックに掲載されている4ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ac_cho_0006-3_takanabe
世たんぎん夫と大坪甚右衛門を責任者として派遣。この年から反銀が始まった。反あてが銀とは、知行地を宛行われている者に対し、禄高一O石につき銀一O匁(後、高一OO石につき銀七O匁)を賦課するもので、これを役務に服さいごうぎんりんろくする者に催合銀と称して支給することもあった。康禄(蔵米)だけ支給されている者には賦課されない(藩史一班巻三・諸土制度〉。同十六年三月、種長は大病にかかった。前将軍家康から「万病円」という薬を贈られ、幸いにして回復した。同十八年(一六二ニ〉六月、福嶋に中国船が漂着した。九月、四歳になった嫡孫種春を伴って参勤した。家督を継がせる手続のためであった。種春付きの家老は内田権之助、お守役は大坪太郎左衛門。種春の母を始め、多くの者が種春とともに江戸屋敷に住むことになった。その年の十一月、種長の弟で、県(延岡)城主の高橋元種が改易となかわらり、奥州棚倉へ配流となった。元種は秀吉の征西のときには豊前国香春〈み城により、父種実・兄種長とともに島津勢に与し抗戦したが、後に降伏したので罪を許され県に封ぜられた。宮崎・本庄・穂北なども合わせてとがにん五万三、000石を領したが、幕府の科人水間勘兵衛を領内南方の鉾野にかくまったことが露顕し改易となったものである。翌年十月九日、奥州二本松で病没した。種長は弟に先立ち、慶長十九年六月十三日江戸に没した。荒牧源左衛門、恵利左助、木元九左衛門、山崎八郎左衛門の四人が殉死した。大寺与惣右衛門と持田字鴫野の人、大寺与惣右衛門(藩史一班は徹夜神楽与惣左衛門)は本姓は矢野といい、種長が筑前から移封された際、船手として仕え、敬神の念強く、殊のほか比木大明神を尊崇し、廟前に松樹五OO本を植えたのが松並木となって後世まであったという(隈江家記〉。また各地域に値えたものが、後世供養の松と近第4編称せられた(口碑)。また国土安穏五穀豊雄院の祈願のため、毎年十二月のひもろぎ士口日を選び、祭場を設け神木(神鱗)を立て、天地の神霊を勧請し、夜を徹して三十三番の神楽を奏して祭った。これがいわゆる高鍋神楽の徹夜奉納の始まりである。後に藩内安全祈願のため比木廟前に奉納されるようになったのは、寛永二十年(一六四=一〉十一月十八日であると「見聞年代記」は伝えており、これを「門徒神事」といったと「藩史一班」は記し、爾来三OO年の恒例となった。(堤長発家氏神祝詞)現在は旧高鍋藩の郷社六社(比木・愛宕・八坂・三納代八幡・白血詣・平田の各神社〉の大神事として、毎年旧暦十二月十一日に六社が交番で行うことになっている。178与惣右衛門は、また鬼神に仕え、禍福を予言してしばしば効験があったので、当時の人々は深い信頼と尊敬を払ったと伝えている。家庭的には恵まれず嫡子は早く世を去り、みずからも寛永五年二月十六日没した。藩主はその死を悼み堤家の祖長勝がその女婿であった縁故により墓のそばの地を与えて洞堂を建立させ、大宮大明神の号を贈り、その子にごうし若宮大明神の号を追贈し、その弟の子紀伊宮大明神とともに一宇に合杷さいしし祭把を絶たなかった。明治二年社号を改め、三柱の神を総称し大矢野神社と改称した。しかるに、大正九年国鉄日豊本線の建設のとき、鉄路がその墓に当たるため、掘り起こして線路の東方に移し、元の墓碑もそこに据えて祭った。元の墓石は盲信の人々が薬用にするといって削り取り損傷が甚だしいため改葬に当たっては、特に堅い石を選んで建立した。墓を掘ったとき、医療の織と思われる四本の黄金の針が出てきた。人々に医療も施したものであろう。勘右衛門水路長友勘右衛門の発議を取り入れて用水路を開削し、畑地帯を肥沃な水田にした、いわゆる勘右衛水路の