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概要

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寛政二年の野別府代官目安には右の区分の地名が詳細に次のとおり記載せられている。上名貫は川北に相当する。'し、山2上2見末Z征そ仮矢ゃ名原5主新下t名征七矢兵原衛支岩=船主配山;- )1 1ごところA心見寺迫長野股E猪L‘野の内ノ野平山堀ノ内雨期J'"松府:仮名落E主鹿し税田幸t利木言兵衛余ょ支瀬せ配たのはる田ノ原飯谷高松丸山上津つ上新え名野の藤田Z貫組二財沓主新上津名2袋f別2与貫きる府ぅ兵蔵衛明f王福ふ支田3原t配ん藤尾べ見上回鞍ミ抵1み生?出ノレ羽木き下上和ゎiU田だる分存木吋すむ戸&子らノんf、平2分子村'-./立E野の藩政建設期の高鍋美んベ津は藩主が参勤交代に出かける港であり、坂神方面や江戸に通じ、政治経済のうえからも藩の表玄関ともいうべき重要な港であった。それだけに、藩主の宿泊所であり別邸ともいうべき御仮屋を初め、御船奉行所、藩倉庫、津口番所、瀬口番所、遠見番所などの諸機関も多く、大型の商船を持つ回船問屋もあり、人々の出入りも多く、その行政は極めて重視され、美んべ津番代は給人を任命し、番代の指揮により代官が支配した。元禄十四年二月、武末清兵衛が美々津番代となったことは職制のところで述べたところである。第3章福嶋代官は見聞年代記の寛文八年三六六八)七月二十七日に「福嶋かわる代官替関正左衛門岩村忠右衛門出足」とあるが少し表現不足である。ご本に関正左衛門代とあり」と付記してある点から見ると、関正左衛門に代わり、岩村忠右衛門が代官となったということであろう。つまり一代官制であったことを示している。元禄十四年(一七O一〉には二代官制となり、山東代官に荒川孫九郎山西代官に林藤八を任命し、山東代官所を本庄(本城)に建て、福嶋目付を置き、行政に細かな配慮をしている。しかし翌十五年十一月、都井郷では凶作のため検見が行われたが、北方郷では検見を圧屋が取り上げなかったといって農民百四、五十人が集まって騒動し、郡代泥谷貞右衛門の取り扱いで鎮まり、十二月には西方の農民が桂ケ迫へ集合し、これも斡旋によってようやく鎮まるということがあった。そのためいっそう行き届いた行政を行う必要から、二郡代、三代官制とした。すなわち西方・北方・南方担当の郡代に武末清兵衛を、本城両名・市木両名・都井の担当郡代に坂田喜右衛門を任命し、西方代官に黒水彦七、南方・北方(理〉代官に金丸利兵衛、本城・市木・都井代官に荒川孫九郎を任命したのが元禄十六年八月であった。またこれらを統括するため、正徳元年(一七一一)七月、家老隈江五郎左衛門を福嶋都合(長官)に任命した。隈江五郎左衛門は毎年春あるいは夏の植え付け時期に福嶋に赴き、収穫の終わる秩冬に高鍋に帰るという精勤ぶりで、享保八年(一七二一二〉致仕するまで一三か年にわたり福嶋の統治に尽粋し、優れた功績を残した。後任に泥谷要人、次いで小坂平兵衛、小田彦左衛門が任命されたが、人心も安定し、騒動もなく、延享二年(一七四五)福嶋都合も廃止された。代官もいつのころか山東、山西の二代官制に返ったが、その時期は明らかでない。安政五年三月二十日、福嶋東西蔵方などの改革の勘定所存寄の中に、蔵の開閉には「両代官」のうち一人が立ち会うことを提言しているのは、二代官制に返っていたことを示している。福嶋の町方、浦津はいずれも代官支配であった。行政区画表以上のとおり高鍋城を中心とする児湯郡東部と諸県および福嶋の行政213