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概要

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秋月氏入封時代の高鍋財部城下の構造は、城の東正面に、南から北へほとんど一筋町の市街地をつくり、大手門と市街地との聞の筏地区を上級武家屋敷地帯とし、市街地の東に当たる石原地区、少し離れて南東の蓑江地区、北に続く小丸地区、小し離れて北東の宮越地区に、中級・下級の武家屋敷を配置し、あたかも、市街地を武家屋敷が擁護するかのようにつくられている。城の北門である島田門の北部の黒谷・高月・松本・平原には、各階層の武士を配置し、山手は寺地としている。この地区には町割以後に建立された寺院まで入れると、神宮寺、鷹月寺(後に高月寺〉、大竜寺、安養寺、竜雲寺、宝福寺、飯長寺、西迎院、仙蔵寺(中世)がある。農民や町人の帰依する浄土宗の寺院、満月院円福寺と称名院円浄寺を街外れの水谷原と、水主の街である蚊口浦に置き、浄土真宗の寺院である称専寺・光福寺・覚照寺を市街地の中央と、水主の街蚊口浦と農民の多い平原に配置しているのは、庶民への細かな配慮が見られる。城内には秋月氏尊崇の神廟と藩の祈祷所の地福寺を建立し、城の鬼門には鷹月寺(」一一両月寺)を配するなど当時の信仰に基づく配置も見られる。口碑によれば神官の屋敷も鬼門の方角に置いたという。城の南門である蓑崎門の南方の毛作・光音寺・職司地域にも武家を配置し、佐土原務方面への筈戒にからめて備え、城の揚手に当たる野首と揚手南面の脇地区にも武家及び准武士身分の者を配置している。市街地を離れると、東方に諸職人の住居を集団的に置いた地域があり、後に道具小路と呼ばれた。小丸川河口の蚊口浦は港町として物資の出入口として重視し、後に代官支配の特別地域とした。蚊口浦では寛永十年(一六三三)十一月大火があり、「見聞年代記」の「市街尽焼」という記事から見ると、商戸が軒を連ねていた様子がうかがえる。蚊口浦港の北岸鴫野地区も繁栄していたと思われる。蚊口浦港に近い萩原の、小丸川川岸近く、藩の倉庫があり、藩の物資が蚊第2章口浦港を経て藩外に積み出され、物資もここから流入した。陸路から城下に入るには、北は鬼ケ久保・冗ノ下から小丸川を渡船で入る道と、都世・川南から高城へ出る古代中位以来の官道を通り、高械の渡船で小丸川を渡り、椎木村から城下に入る道があった。城下から南方の佐土原藩おいわけには水谷原から追分を経て佐土原へ至る道があり、西方の妻・穂北に出るには、椎木村を経て妻、もしくは杉安へ出る道路があった。農民の集落は、耕作の利便を最も重視して各地域に分散し、特に住居は風水害を免れるため、平地でも比較的高さの高い地域に、集団的に作られた。農村の分布は自然発生的であったかも知れない。風を避けるたきんち〈め錦竹(ほうらいちく)を家の周りに植え、台地では好んで林の南側に住んだ。これが、藩成立当時の城下の配置の概要である。移転後の慶長九年三六O四)、財部に移転して後の主な出来事主な出来事を挙げると次のごとくである。移転の年、江戸城の堀普請を他の落とともに手伝うことになり、その奉行に林又右衛門と草川仁右衛門を任じ、多くの人夫を率いて参加させた。同十年、江戸参勤が始まりヲサイ姫が人質として江戸屋敷に住むことになった。六月八日には種長の弟石見守種守が福嶋で亡くなり、西林院に葬られた。同十一年、江戸城修築手伝いを命ぜられ、家老内田吉左衛門が人夫を引率して参加した。同十三年三六O八〉、駿府城修築に家老入江主水以下参加。同十四年、野別府(都農川北〉の岩山牧が始まり、蚊口浦へ唐船が漂着した。177同十五年(二ハ一O)、丹波亀山城の修築手伝いを命ぜられ、隈江次太