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概要

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会計に臨んだが、後には勘定奉行、検者頭取、検者、総圧屋は毎日勘定所に相会し、理財、会計金穀の出納に関することを議し、財政に関する一切のことに関与する。また、船奉行、公事方を兼任しえいぜんた。船奉行は藩船の営繕を監督し、公事方は金穀の貸借争訟の糾明をつかさどった。元禄四年(一六九一)十一月内田与三兵衛の任命が勘定奉行の始まりである。家老、用人、奉行の席次序列は、「本務実録」巻之六に「坐列之次臼家老、日用人、日奉行、由二子先制一也」と記している。帥判港政建設期の高鍋大付元禄十四年五月二十一日、泥谷与五兵衛の任命されたのが大目付の始まり。席は者頭の上席。同三十日に大目付動方心得が渡された。その主要な点は次の八項目である。ω藩中の諸事の見聞、家中の者の人柄の善悪、勤務状況の報告。ω式目、および月三日会所に出勤。ω家老の相談事、役人の様子の報告。ω上中下諸役人のえこひいき、私欲などの報告。同並目付の報告を月一回取りまとめて提出する。ただし、内見は禁止。伺並目付の指導、不届きがあれば大目付から報告。的大目付は藩主の目代、報告は藩主へ直接行うこと。へんぽ制最も戒めるべきことはひいき偏頗に陥つてはならないということである。伺者頭(物頭〉足軽の諸組を統率した。家老以下物頭まで給人をもって任じた。村郡代(番頭)目第3章福嶋に置かれた。初め福嶋番頭といい、貞享四年(一六八七〉正月、二0年間の実績のある泥谷市右衛門に代わりその子与五兵衛が福嶋番頭として赴任したが、本藩実録には元禄四年三六九一〉十一月に「福嶋郡代泥谷与五兵衛云々」と記載されているから、このころ番頭を郡代と改めたものであろう。元禄十三年(一七OO)二ぼってき月、与五兵衛に代わって泥谷貞右衛門が抜擢されて郡代に就任し、代官も山東・山西の二代官制となり施政も行き届いたが、元禄十五年災害が続き、庄屋の不行き届きから農民騒動が起こるに至った。そこで同十六年八月、三代官制をとり、西方代官、南方・北方代官、本城・市木・都井代官を置き、その統轄のため、二郡代を置いた。西方・北方・南方の担当の郡代に武末清兵衛を任命し、本城・市木・都井担当に坂田喜右衛門を任命した。宝永元年(一七O四)両郡代の統轄のため、福嶋都合が置かれ、家老隈江五郎左衛門が任命されている。しかし、後に再び二代官制に返る。tゆ番代美ん二停に置かれた。元禄十四年(一七O一〉二月武末清兵衛が任ぜられ、五月二十七日に番代条目が渡されている。任務の最も主要な事項は唐船漂着の際の処置に関することである。それは元禄八年三六九五)老中から天領細島に唐船漂着の際は高鍋で支配するように命ぜられていたからである。そのほか、ω津口諸役の取り締まり。ω津口の船の出入り改め。ω出船手形に関すること。ωたぶとき遠見番・余瀬番、美んベ一津足軽の監督。朗代官の指揮などである。武末清兵衛は美々津番代・津中都合として美々津の行政のすべてを統轄した。しかし、享保十八年(一七三三)から番代は一年ごとの交代制となった。203