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概要

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目付一人、分知側から八田作左衛門、関蔵兵衛そのほか下役人が立ち会って受け渡しが行われ、次の秋月長門守分知所付覚が渡された。日向国諸県郡真幸院之内木脇村きんとミ共ニ高千百四拾三石田升岩地野高三百六拾七石四斗七升吉野村高三百六拾石九斗五升嵐田村醐一盟ハト高四百八拾五石壱斗五升宮崎郡穆佐院之内金崎村高四百九拾弐石三斗三升堤内村高百五拾壱石六升都合三千石御朱印高無相違村境古来ヨリ之通山野共ニ引渡之畢伯如件秋月長門守種政朱印元禄弐己巳九月廿二日種政(花押)秋月式部殿(秋月家文書〉また、元禄七年(一六九四)本所表口に新屋敷を幕府から与えられた。しかし、わずか三千石では人事の面からも財政的にも困難な面が多く、本家の管理下にある状態であった。藩政建設期の高鍋唐船漂着と山陰種政が家督を相続した元禄二年の七月と翌三年に百姓の逃散二つの特異な事件があった。元禄二年七月十六日、平田の浜に唐船が漂着した。長さ二五間(五0メートル)日本では見かけない大船で十五日の大風雨(台風か)で破船し、死者五人、船頭始め六三人の船員が上陸して救助を求めているという注進であった。竜雲寺の海桃和尚を派遣して筆談させたところ、船長は彩士という者であった。さきに寛永二十年、福嶋へ唐船漂着の際、江戸へ報告に行った福嶋代官の入江角右衛門が取り扱いの責を負うて切腹した例もあるだけに、取り扱いに慎重であった。失態の無いように伊勢第3章神宮に代参を差し立て比木社初め各社へ立願し、家老手塚刑部左衛門が士卒を率いて長崎へ護送し、長崎奉行へ引き渡すことになった。本藩、拾遺両実録はその物々しきを詳しく記している。まず死者を後日の証のため塩漬けにし、海桃和尚を導師として平田の高地に丁重に葬り、荷形船一七反帆一そうに唐人六三人の荷物を積み込み、中小姓、徒士、足軽おおぜいが乗り組み、藩船倒竜丸に家老手塚刑部左衛門、同じく落船勝行丸に奉行隈江五郎左衛門、好久丸に町奉行千手次郎兵衛がそれぞれ乗り組み、唐人六三人を大小七そうに分乗させ、中小姓、徒士、足軽、小人、人足など三三七人が弓一六張、鉄砲三二ちょう挺、長柄二O筋を持ち、小早船二そう、水取伝馬船、そのほか帆船一六そうに乗船し、唐船を曳航するという物々しさであった。八月五日出航し、同十六日長崎に入船、長崎奉行所に報告し、滞りなく唐人を引き渡し、ようやく無事に事が済み、一同が堵に安んじた。給人梶仁之平が江戸へ報告に出立したのが八月二十七日であった。今一つの元禄三年の事件は、延岡領臼杵郡山陰・坪谷両村農民千四百余人が郡代梶田十郎左衛門の悪政に堪え兼ねて、野別府管内の余瀬、石並、股猪野、石河内へ逃散して来て、帰郷を説得しても応じないという事件であった。高鍋藩では、野別府川北の股猪野に仮小屋を設け保護すあっせんるとともに、さまざまに斡旋に努めたが、結局は農民には犠牲者が出て厳罰を受け、有馬氏も糸魚川に所替えとなるという悲劇的な結果になり、高鍋藩にも大きな警告を与えた。行政・農政その他の施策にも大きな警鐘として響いた。種信の治位に、前代に乱れた藩政を改革し、検地を行い、税制を樹立して財政の基礎を固め、落内外から広く人材を集めて、藩政の発展を目指したが、真の建設はま制度の整備と農政199