ブックタイトルac_cho_0006-3_takanabe
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世第三節種政の就封と木脇分知近種信は天和二年、外祖父佐久間大膳亮の第二子源四郎に落ち度があったことから閉門の憂き目を見たことがあった。遠縁の係累の落ち度を理由に処罰を受けるという全く思いがけない出来事であった。その後、大膳亮の長男勝堂に跡継ぎがいないため種信の末子を養子とすることになり信濃長沼一万石を継がせ、織部勝親かつちか(後に勝抜〉と称した。勝親は元禄元年三六八八)五月十四日、選ばれて五代将軍綱吉の奥小姓となった。しかし勝親は病気と称して命に従わなかった。将軍は怒って長沼一万石を没収し、奥州二本松の丹羽若狭守預けの処罰を加えた。勝親の父である種信も累を被り、再び閉門を命ぜ〈ぎられるに至った。幕史の処置は過酷を極め、門も窓も釘付けとし、夜八時以降でなければ外出できず、夜半十一時以降でなければ外部の者は入ることを得ず、邸内の役丁まで髪やひげをそることを禁ぜられた。閉門二か月余、ようやく七月三十日解除された。「藩史一班」の伝えるところによれば、前回種信に加えられた思いがけない処罰も今回の処罰も老はたもと中に牧野某があり、旗本であったころ種信に冷遇されたことを恨み、権勢をかさに種信に辛く当たったのであるという。元禄二年間一月二十一日、老中、大久保加賀守忠朝は種信をひそかに自宅に招くことがあった。たぶん牧野某に関することにより諭すところがあったのであろうと藩史一班は伝えている。それにより種信は思うところがあったのであろう。二月門田治部左衛門(後の初代三好善太夫)を召して用人格となし、禄=一O O石を給し、二十五日上書して引退を願い出た。二万七千石を世子種政に、木脇三千石を次子種重に譲ることを第4編種信引退願い出て許された。行く末の思いがけない事態に処する配慮であったのであろう。198種信は引退の後、江戸に居るのを好まず、高鍋に帰り、萩原の稲荷神社の西に隠居所を建て藩政の後見をするとともに、能楽を楽しんで余生を送り、元禄十二年七月二十七日、六九歳をもって没した。隠宅のあったところは現在も「御屋敷」という地名で呼ばれている。屋敷跡は国道一O号線高鍋大橋の南詰の西二0メートル辺りで現在は堤防と河川敷になり、わずかに十数平方メートルの三角形の土地が堤防の南に残っているたねつね種信の長子は種恒で、世子となり出羽守に叙せられてと木脇分知いたが、延宝四年十月、二二歳で病没したため、元禄二年種信が隠居すると二男山城守種政が家督を継ぎ四代藩主となった。種政は藩主になるとその五月に江戸を出発し高鍋に帰った。それとほとんど同時に、種信の三男式部と四男種利も高鍋に向かっていた。式部は木脇に分知されたため、種利は乱心の故をもって幽居させられるためでるうきょあった。種利は帰着のうえ、市納村(川南〉に龍居させられ、正徳二年(一七二一)四八歳で死去している。種政の就封式部は種政の直ぐ下の弟で、重三郎、種重ともいったが、後に観桜とよりあい改め、木脇三千石を分知し寄合に列した。寄合とは三千石以上の非職の者で若年寄の支配に属する。元禄二年五月十一日分知家老に小田姓改めの八回作左衛門が任命され、分知代官に関蔵兵衛が任命されたほか、種封の懇望により小山五右衛門、杉田平助、清孫七が分知役人として赴任した。九月二十二日は吉日ということで、分知引渡式が行われ、秋月本家から河野七郎兵衛、同左市右衛門、域市郎右衛門、隈江五郎左衛門、徒士