ブックタイトルac_cho_0006-3_takanabe
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下町を守る堤防を築き今に佐久間土手の名が残っている。。中村伴右衛門その子孫は家老格に進み家老四名が出ている。。河内山清八(一OO石〉元水筑姓。富山利内蔵助の子孫。秋月の家臣でざんげんあったが議言せられて弟西信とともに流浪した。疑いが晴れて種信のとき復帰。西信は復帰をいさぎよしとせず諸県に住んだ。後、水筑姓に復し、明治になって秋月を名のった。清八の末孫が秋月左郁夫、鈴木馬左也であり、西信の末試聞が秋月橘門、お茶の水女子大学、九代目の校長秋月新太郎は橘門の子である。。このほかに、青野長右衛門小寺数馬吉岡孫之丞(一OO石〉松下玄恵河野市右衛門永井新次兵衛本多庄右衛門(一OO石)沢辺喜平次(一OO石)塙源兵衛(一OO石)磯源次郎(一OO石)小寺小左衛門(一OO石)野津原彦之丞士口松=一右衛門淵上瀬兵衛鈴木幾弥(一OO石〉らも新しく召し抱えられた人々である。(本藩実録、拾造本藩実録、藩史一班、中興系図、高鍋藩史話)森平内藩政建設期の高鍋福嶋は秋月氏が筑前から移封された当時、藩政の本拠としたところであったが、慶長九年高鍋に移ってから後、行政上の配慮の行き届かないところがあった。殊に秋月又左衛門らの専横に内政の混乱した時期には、いっそうその傾向が強かった。種信は万治三年藩主となるや、領内の実状を知るために、その十二月、諸県を経て福嶋を巡視したのであったが、遠隔の地ではあり、役人福嶋の農民騒動第3掌の処置も当を欠くものがあった。たまたま寛文七年三六六七)六月、幕府の水路巡見使が派遣され、福嶋今町に宿ることがあった。そのとき市木村の農民百八十余人が生活の窮状を訴えようとして果たさなかった事件があった。七月になって福嶋の農民九六五人が大河原に集合し、悪政二五箇条を挙げて巡見使に訴えた。藩庁では驚いて、黒水織部を初め、泥谷次太夫、関正左衛門、篠原主計、財津弥五右衛門を福嶋に急派し、実状を調査するとともに、農民を諭した。農民は、福嶋横目鬼塚又兵衛、松田杢右衛門両人と、財部横目平塚六郎右衛門を諒することを強く求めた。種信はやむなくこれを許した。農民はようやく怒りを解いた。六郎右衛門は変を聞いていち早く逃走してしまった。農民の怒りを鎮めるため、やむなくその兄利兵衛を殺した。この事件については、幕末のころの家老で史家でもあった城勇雄は次のごとく評している。「藩政混乱のため、団地の境界が正しからず、租税も定らず、隠し田や脱税も少なくなかったが、野人たる住民はそれを日常のことと思っていた。いったん検地が行われると、田があれば必ず租税が課せられ、隠し田もできなくなった。農民は驚いて世業の田を奪われると思って騒動し、悪政と唱えて巡見使に訴えたのではないか。福嶋は元薩摩に属していたし、城下から二十里余り離れ、役人の疎漏も免れず、横目を農民が憎み、その処罰を求めたのは隠し田や、脱税を厳重に監察、告発したためではないか。」と述べているが、藩政の当路者には大きな箸,鐘であった。種信は泥谷市右衛門を福嶋番頭に起用し、岩村忠右衛門を後の代官相当に任用し、福嶋は高鍋より広い所でその政を最も慎重にしなければならないところである、と特命を与え、徒士横目を付けて統治に当たらせ、種信も延宝三年三六七五)、同五年、同七年、みずから巡見してその統治を重視した。市右衛門は二O年にわたり腐心し、致仕後はその子与五兵衛に職を継がせている。197