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概要

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世種信が最初に家老に任用したのは泥谷監物、次いでは坂田宮内であった。監物は初代種長のときに仕え、寛文二年の京都御所新院の普請の際に、内田新之丞とともに総本締めとなり、五百余人を統率して普請を完成させた人であり、優れた力量の人であった。坂田宮内は坂田大学の弟右京の子で、大学の甥に当たる識見の優れた六七歳の人物である。寛文五年(一六六五〉五月、宮内を家老に登用すると、いったん家老に任命した又左衛門の長子の内田権之助(賎窃針縫諸移住初代信何十札)を七月に罷免し、その翌年にはこれを追放に処し、上方下方騒動は、いわゆる正義派の復活という形で終了したのである。種信の治世に、股肱と頼む家老には、右の二人に次いで初めは内田新之丞、森十郎左衛門、中ごろ監物の子次太夫長行、山田助之進、晩年には内田六郎兵衛、手塚刑部左衛門、泥谷士口右衛門が任ぜられた。中でも泥谷次太夫長行は群を抜く人物であった。寛文十年(一六七O〉から貞享三年三六八六〉三月六日の死に至るまで、一六年間家老として、種信、種政の二代に仕え、卓越した力量を発揮した。性来衆に抜きん出て常規で律し難い才識を持ち、忠義の心のあつい人物で、種信の信頼が最もあつかった。ある日強い地震があった。最も早く種信のところに駆けつけて安否を問うたのは次太夫であった。城下出火の際、最も早く駆けつけたのも彼であった。何か事があると最も早く駆けつけるのはいつも次太夫であった。種信は常に家臣に向かって「いったん緩急のとき、先頭に立つのは長行である」と言っていた。種信の抱負の実現に最も貢献した人であった。また、各方面から優れた人材を発見し、重くこれを任用し、その力を遺憾なく発揮させたのは、種信の優れた特色である。次の人々は新しく召し抱えられ、藩政再建に寄与した人々である。近第4編。門田治部話術門(三OO石)その父兵左衛門は安芸国三好郷の人。初(右)め花井数馬といったが、門田治部左衛門に改め、更に三好善太夫と号した。上杉鷹山に訓言を呈したのは、三代目善太夫重道である。明治に活躍した三好退蔵は田村家から出て三好氏を継いだのである。196。手塚類之助る。下野国那須の人。後、刑部左衛門。天和三年家老とな。手塚喜五郎類之助の兄の子。。岡本藤右衛門下野国の人。後、雲八と改名。。鈴木与兵衛(一五O石)。。鈴木喜内。o団井武左衛門三六二石〉後、舎人と改名。。沢辺団右衛門医師。後、石井玄秀と改名。。村井弁之助(一OO石〉後、久右衛門と改名。。田村金左衛門(一OO石)下野国の人。本藩実録には士口左衛門と記す。太田清左衛門(二ニO石)の父。。川崎良宅医師、肥前国平戸の人。。館野休伯医師。十人扶持。。諮問一島久右衛門(一OO石)父九郎兵衛桑名に奉公、帰参。役。本藩実録には柏嶋と記す。。佐久間頼母(二OO石)上杉謙信の越後流の兵学者として名あり、江戸に門戸を構えていたが、種信に招かれて江戸藩邸で兵学を講じ、種政の時高鍋に下向。種信の五男勝弦が佐久間安房守勝豊の養子とはんらんなったことにより吉田寺頼母と名のった。小丸川の氾濫から高鍋城。要事J勺、ー八日'ZEjMV良江戸聞番