ブックタイトルac_cho_0006-3_takanabe
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けにんし、騎土三人、医師一人、士卒七二人で警護し高鍋に送った。岡登の家人梅沢三郎五郎もこれに従った。八月十三日大坂に着き、官船底徳丸に格子牢を造ってこれに移し、二十日北大々津着、翌日新小路の手塚十歳の旧邸(現在の石井家の所〉に総奉行河野七郎兵衛が先導して入れ、座が定まると家老が面会し、世子種政は使いを遣わして安否を問うた。それが終わって泳浴、夕食ぜんは二の膳がつき濃茶を勧めるという丁重な取り扱いであったが、幽閉の監守には四人が交替で当たり、限江五郎左衛門と小田十郎左衛門が警固の責任者となるという厳重きであった。藩政建設期の高鍋翌元禄元年(一六八八)二月、幕命によって再び江戸屋敷に送り届けると、三月二十九日、幕府の目付野瀬総十郎と杉原四郎左衛門の両名が訪れ、岡登に処罰の申し渡しがあった。すなわち、岡登の父次郎兵衛は罪を犯し流罪に処せられたが、その後その私財を調査するに巨万の隠匿財産が発見され、流罪より更に罪が重く、改めて死罪に処せられ、その子であるそのほうも父と同罪であり、切腹を命ずる、というのであった。席を広間の庭上に設かいしゃ〈け、野瀬・杉原の両名が検使となり、種信も臨席して執行された。介錯は内田彦四郎であった。岡登の従者梅沢三郎五郎は、老中大久保加賀守忠朝の計らいでおとがめなくその家族に引き渡された。内田彦四郎について「務史一斑」は次のように記している(原文は漢文)。「伝へ言フ。彦四郎時ニ十八。検使ソノ年少ナルヲ見、ヒソカニ公一一謂ツテ日夕。過チナキヲ得ンカト。彦コレヲ灰聞ス。相(介錯)既-一終リ謹ンデ諮ツテ日夕。世間フ心ヲ安ンゼヨト。検使級然タリキト。,官房小少ニシテ示現流ノ剣術ヲ修メ、頗ルソノ妙一一至ルト。(藩史一班、巻五〉第3章種信は厳格一方の硬骨漢ではなかった。それは信賞必罰、家臣をよく処罰したが、またよく罰を解いた。人情の機微をうがつ面もあった。それは性来のものはもとよりながら、能楽を好み、みずからもたしなんだところから来ていると思われる。種信と能楽種信の能楽愛好は非常なもので、貞享三年(一六八六)能楽師を多数上方から招いてこれを召し抱えている。脇師梅村次左衛門、山口甚助、笛師榊左兵衛、小鼓師賀藤左衛門、大鼓師酒匂甚三郎、藤田又八、狂言師山口作之丞。貞享四年にも狂言師津江助六、柄本平九郎、笛師藤田八兵衛、脇師税回新八、太鼓師中村平七を召し抱え、これを徒士通りに取り立てた。萩原の隠居屋敷に退隠してからは能楽に浸り、元禄八年八月には隠居所に能舞台を建てている。その年の暮れまで能舞台が八月に完成し、に、藩主種政も出かけた能楽の催しが八回も開かれているほどである。種信という人を考えるとき、あの幽玄美を演出する能楽をこの上なく愛好した事実を考え合わせねばならない。混乱した藩政をみごとに立て直すには、単に厳しい信賞必罰だけでできることではない。多くの人材を他国から集め、適材を適所に配置してその能力を発揮させるよう人心を収らんするには、豊かな人間性がなければならない。種信が藩政を改革し発展の基礎を確立したのは、その人間性によると思われる。人材の登用一方では新しく有能な人物の登用や、他国からの新規召し抱えが行われた。「坂田大学一味同類五百三十人退散、ソノ内殺害多シ」と本藩実録に書かれており、秋月又左衛門一派の者も前記のとおり出奔逃亡する者も多く、同族同志の争闘に死亡したえいほう者も少なくなかった。また有能な人物も鋭鋒をひそめて退隠している者もあった。人材を発掘して重用し、有為な人材を招致するのはそれほど195たやすいことではなかった。