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概要

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世巻之五に近七月六日(木藩実録五日)公、徒士垣原茂右衛門ヲ殺ス。是ノ日公(種信)出行シテ島田門外一一在リ。供廻リノ者一一命ジテ城陸ノ菱子(菱の実)ヲ採一フシム。茂右辞シテ日ク。是レ奴隷ノ事一一シテ臣等ノ職-一非ザルナリト。公怒ツテ日グ。敢テ君命ヲ拒ムハ人臣ノ職カト。乃チ伴頭村井久右衛門、岩村武右衛門ニ命ジテ検使トナシ、側伴ヲ討手トナシ、茂右ヲ諒セシム。公、輿-一在ツテ之ヲ観ル。茂右きず善ク闘ヒ、久右ヲ創ツケ武右及、ヒ津江(本藩実録隈江トナスハ誤)藤九郎ヲ倒ス。討手数力シテ始メテ之ヲ磐ス。茂右ノ父八郎左衛門ヲ福島ニ、同僚三人ヲ扉田ニ請ス。茂右ニ弟有リ。頗ル武芸-一長。ス。変ヲ聞キ薙万ヲ提ゲ援一一赴ク。竜雲寺前一一至リ、兄ノ死ヲ聞キテ還ル。聞者皆目ク。危イ哉。幸一一シテ及パザルナリト(口碑)。種信が藩政を正常化し、更に発展させるため、失われた人材を補充し、富国のための積極政策第4編種信の外交的手腕を推進するのに、対外的に活動することも必要不可欠のことであったが、種信は外交的手腕にも優れていた。寛永元年(一六六一)皇居の新院の普請を幕府から黒田市正とともに命ぜられたとき、工事現場にみずから一か月間滞在して督励し、完成するや上京参内し、新院から酒肴を賜って面白を施しことは前述した。朝廷から幕府に勅使が差遣された際の接待役を六回勤めている。すなわち、寛文六年(一六六六〉一二月十六日役。高倉中納言と柳原大納言の馳走同十年(一六七O)三月九日延宝四年(一六七六)三月勧修寺御門跡寛俊を天徳寺にて馳走。梅小路中納言と高倉大納言の馳走役。天和元年(一六八一)五月走役。徳川家綱一回忌の新院幣使日野大納言馳194貞享四年(一六八七)四月は仙洞使の馳走役を担当する予定であったが、種信三女の花房右近室死去のため馳走役を免除された。同年六月仙洞使東園中納言基量の馳走役。(徳川実記巻一五)同年十月聖護院門跡道祐法親王の馳走役。公家馳走役は格式ばっていて経費のかかる大役であり、それだけの才幹のある人物でなければならぬことは浅野内匠頭長矩の殿中刃傷事件によって赤穂浪士の仇討ち事件となったことからも人々のよく知るところである。その役を幕府が種信に六回も行わせていることは、柳の聞の三富侯と風評を立てられていた財力とともにその才幹もあったためであろ内ノ。下総国関宿の城主で寛文三年(一六六一二)老中となった久世大和守広之とは親交があったのか、寛文十年三六七O)三月、麻布屋敷にこれを招請している。その前年の寛文九年には種信は城主となり、財部を高鍋と改め、城の修築を認められている。諸侯の中で城主という格式を得て、屋敷構え程度にすぎなかった城を修築し、近世的な城郭とし、財部を高鍋と改めたということは画期的なことであり、種信の外交的手腕によると見ることができよう。また、幕府の科人である旗本の岡登三四郎を貞享四年(一六八七)七月、幕府から預けられたのは、その手腕ということではないが種信の人物を見てのことであろう。旗本の岡登コ一四郎を幕府から預けられることになると、黒水儀太夫と河辺金太夫が徒士、歩卒二五人を率いて受け取りに出向きいったん高鍋に送ることになった。物一頭隈江五郎左衛門を本締めと岡登三四郎