ブックタイトルac_cho_0006-3_takanabe
- ページ
- 2/46
このページは ac_cho_0006-3_takanabe の電子ブックに掲載されている2ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ac_cho_0006-3_takanabe の電子ブックに掲載されている2ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ac_cho_0006-3_takanabe
世第二章秋月氏入封時代の高鍋近第4編第一節種長の内治秋月種長は種実の世子として天正七年大友の大将、小野和泉・由布雪荷らが鷲巌城を攻めた際、二二歳で初めて出陣し勝利を得て以来、父種実とともに失地の回復に奮闘し、ようやく旧領の奪回を果たしたとき、秀吉の征西により日向国財部に移封された。それから後も朝鮮遠征七か年に及び、帰朝すると、関ケ原の戦、続いて庄内の乱の出兵というように、その四八年の生涯の大部分は戦乱の中に過ごし、内治についての施策に力を尽くすゆとりはほとんどなかった。また資料も乏しく、財部械の修築に関する多少のこと以外明らかでない。種長の内治城の修築に関することは既に序章に記したので簡単に記す。慶長五年三六OO〉関ケ原戦後、種長は福嶋への帰途、財部へ一0日間滞留し、城の矢倉(櫓)の普請を命じているが、位置も規模も不明である。同十二年三六O七〉正月野首掘り切りが始まり、同十四年六つめ月、詰の丸へ三層の櫓が建てられた。財部城下の町割り、あるいは侍屋敷の配置など財部城下の町割りの行われたのはいつか明らかでないが、福嶋から財部に藩の政治の木拠を移した慶長九年三六O凹)からあまり遠くない時期に行われたであろう。町割りに関係のありそうなことを文献の財部城の修築中から拾い出しながら考察して見ることとする。Oハ慶長十年三六O五))十一月伏見-一テ富士灰ノ内ヨリ木像一体(仰)出現御信向ニテ高鍋城ノ鬼門-一鷹着寺御建立。御安置後高月寺ト改ム。(本落実録、巻之ニ)(図〉O同十=一年三六O八)戊申。高鍋町祇恩社建之(同)176と書かれている。「高鍋」という地名に改めたのは序章に述べたとおり、寛文九年以後のことで、正しくは「財部」であるべきであるが、「城の鬼門」に寺を建立したということに、既に町割りの意識が見られまちる。祇思(国)社の建立には「高鍋町」すなわち「町」という語が用いられているところから市街地が形成されていたことは明らかである。「見聞年代記」によると祇園社建立は慶長十二年であり、「高鍋藩史一班」巻之三によると、祇園社は現在「元祇園墓地」と呼ばれるところにあったものを市街地近くに移転し、祭礼は六月十四日とした。このときさるが〈は郷土に命じて散楽(申楽)を催させ、前日の十三日から大市を聞かせており、翌年の祭礼からは商戸に散楽を行うよう命じた由を記している。また、祇園社を移転した年から八年後の元和二年三六二ハ〉には、新納高城に町制を敷いており、その担当長官に内田善兵衛を任じている点から見ても、財部には早くから町制がしかれていたと思われる。また、寛永十年(一六一三ニ)一二月二十八日には城下町に大火があり、市街七O戸、石原、小丸三四戸合計一O四戸の焼失を「見聞年代記」に記し、城下町の存在を一裏書きしている。以上のことから、慶長九年からあまり遠くない時期こ、財部城下町は形成されていたと考えてよいであろう。それでは財部城下と市街はどのような配置であったか。詔穫の文献、現況、伝承などにより概略を記してみる。