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概要

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落政建設期の高鍋たぬ二月七日に諌山友竹が訣殺されるという事件が起こった。十二日にはその一族がことごとく殺され、十三日にはその党類男女一三人が訣せられ、十四日にはその余党三O人が逐電したことが「見聞年代記」に記されている。「高鍋藩史一班巻之五」は、これについて次のごとく記している(原文は漢文)。勲日グ。友竹ハ何ヲ為ス者タルカヲ知ラズ。マタ何ノ罪タルカヲ知ラズ。然レドモ罰、族滅スルニ至ルハ尋常ノ罪過ニ非ザルヲ知ルベキナリ。ソノ名ヲモッテ之ヲ推セバ、アルヒハ是レ侍医ヵ。アルヒじゅハ是レ点茶ノ畳(茶道坊主)カ。スナハチ人ノ為ニ使ハレ、守公会話主)ヲ毒セントスルコト無キカ。ソモソモ家ヲ恨ミ相謀リ、権らじゅうったえ臣ヲ陥レント欲シ、之ヲシテ膚受ノ恕(うわベだけ伝える)ヲ為シ、ソノ飛語ヲ為サシムルカ。守公英明剛決大イニ先君ノ比二非もとむベズ。権臣ノ側目スル所(正視しない)トナルハ固ヨリ宜ナリ(もっばっζ-ベっしともなり〉。権臣肱厘シ公室ヲ蔑視シ、ホシイママニ威福ヲ張リ、忠こうはんかもまた良ヲソコナヒ、閤藩(全落)ノ恨ミヲ醸ス、亦一日ニ非サルナリ。流言ヲ構造シテ己ノ悪ム所-一当ツルニ危法ヲモッテス。藤(原)時平ノ菅公一一オケルガ如シ。罪ヲ下手人-一委ネ、之ヲ諒シテモッテ口ヲ滅ス。蘇我馬子ノ東漢駒ニオケルガ如シ。このようにこの事件に非常な関心を寄せている。第3章寛文三年十月十日、秋月又左衛門が六O歳で死亡した。又左衛門の死後、その一味の者たちは摘発を恐れ不安におののいた。翌年二月河野七郎兵衛(一五O石)が牢人を命ぜられ、中元寺軍兵衛が切腹を命ぜられかいしゃ〈た。介錯は木村平太夫であった。十月には竜雲寺住職天雪が追放され、十一月には木村図書(四五O石)木村太郎兵衛(一OO石)竹原弥市兵衛(一二五石)竹原小十郎が脱藩逃亡した。又左衛門は家老であったから、その死後は長男内田権之助(三OO石)が寛文四年十二月いったん家老に任命された。しかし、その翌年江戸において家老職を罷免され、同六年十月に永の暇を下された。永の暇とは家老の家柄を考慮しての表現で、実質は追放であった。そのとき、権之助の姉の子守部長次郎(一OO石)と一族の内田多門(一OO石)が脱落逃亡した。四日後には権之助の妻の父で種春のときの家老を勤めた白井久馬助(四OO石)が逃亡し、権之助の弟又七郎と角弥が前後して江戸から逃亡している。寛文五年三六六五)以後となると牢人を命ぜられる者や、脱藩逃亡する者はいっそう多くなった。牢人は浪人とは異なる。浪人は浮浪して仕えるところのない者のことであるが、牢人は刑罰の一つで、指定された郷村に配流され、ほかの郷村に往来することを禁止されるもので、指定された地域に閉じ込められた者をいうのである。寛文五年以降、百石内外の上級武士で牢人を命ぜられた者は、岩永覚右衛門、大坪加右衛門、内回多門、河辺清左衛門らがあり、脱藩逃亡者に森津右衛門、林伊右衛門、馬渡作左衛門父子三人、山名左内、城六十郎、牢人を命ぜられた内田多門も逃亡し、大竜寺住職藍水は追放となったあ〈らつ最も悪練な者は討手を差し向け成敗せられた。泥谷権之丞は泥谷次太夫と内田覚兵衛が検使となり討手が差し向けられた。権之丞は腕が立ち、討手関総右衛門を迎え討ってこれを傷つけ、続く税田浅右衛門も切り立てて傷つけた。三人目の林安兵衛がこれに続き、激闘の末ようやくこれを倒した。権之丞の父内匠(一OO石)は牢人を命ぜられた。たてわきかつて板浪帯刀を六ツ野原に要撃して殺した垣原一党の垣原茂右衛門が珠せられたのは天和二年島田口においてであった。「高鍋藩史一班」193