ブックタイトルac_cho_0006-3_takanabe
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世蔵入地に関することは勘定奉行および代官が之を取り締まる。勘定所において、その年々の荒廃地や揚がり地などを調査し、検地帳に基づき、課税地面積を決定して、その地域による定免(税率)に基づき年貢高を定めて年貢上納帳を調製し、これを代官所に回し、代官はこれを庄屋に配布し、庄屋は自分のところにある備え付け台帳と照合して耕作者にそれぞれに通知したのである。年貢の納入は連帯責任であり、納入の責任者は庄屋であった。もし期日までに、納入できない者がある場合は、庄屋が立て替えて完納しなければならなかったから、庄屋は懸命になって督促監督に努めた。文政六年(一八二三〉の「福嶋北方村規定書」を見ると、近第4編「年貢納入の済まないうちに、小間物売りや魚屋は入り込ませないというきまりになっていたのに、近ごろはみだりになっているので、村々の入口に小屋掛けをしておき、老人かまたは農作に支障のない者が結縄や草履作りなどしながら商人の入り込むのを差し止めるようにし、年貢が皆済になったら取りやめるようにすべきこと」ということが書かれている。これは福嶋の例であるが、米や艇による物資の購入は福嶋以外でも行われていたと思われる。年貢納入の倉庫は高鍋では、次のこか所にあった。高鍋御蔵萩原御蔵高鍋域内廉之屋敷(後、島田門側へ移転)北高鍋字萩原御屋敷耕作地は一定年限ごとに割替が行われた。何年毎に行われたか明らかでないが、前一記の「北方村規定書」に「団地割替」の「賄」に要する米の規定が記載されている。萩原御蔵の建物城内の際之屋敷にあった御蔵は明倫堂創立の後、島田門の近くに移され、西南の役には秋月程節らを収容する仮牢となり、現在は黒水邸に移されていることをさきに記した。ひらばる荻原御蔵の建物の一部は、明治十三年上江小学校を大字上江字平原に建築する際、移されてその校舎に当てられた。その後、上江村役場となり、幾変遷の後、現在は平原公民館として使用されている。一時は取り壊そうかとも言われていたが、由緒を語る棟札の発見から一転して地区の人々の熱意で保存され活用されることになった。材料や建築法などからも注目さるべき建造物で、珍しく「虹梁」を用いた構造になっている。192以上は検地と税制の一端であるが、検地と税制の確立によって、種信が晩年に柳の聞の三富侯といわれるようになる基礎ができたのである。検地と同じころ、すなわち寛文二年三六六二)一二月、京都御所の新院の普請を島原城主黒田市正(之勝)と行うこととなり、泥谷監物・内旧新之丞を本締めとし、普請奉行には泥谷市右衛門・堤甚五左衛門を任じ、総勢五一一人が上京して造営に励んだ。種信みずからも四月から一か月間京都に滞在して督励し、九月に完成すると再び上京し新院からしゆこう酒肴をいただいて面目をほどこした。その翌年正月、秋月又左衛門父子が逆心を抱いているという風評が立った。又左衛門一味の勢力減殺の絶好の機会であった。務の実状を正しく認識している種信の襲封は、権力派にとっては大きな圧力となり、逃亡する者が続出していた。藩主となって初入国した七月には、早くも斉藤五郎右衛門(三OO石〉が逃亡し、検地の始まった寛文元年には竹原甚右衛門(二OO石)服部左門(一OO石)大場久右衛門(一OO石〉同八郎右衛門、竹原藤兵衛が逃亡した。秋月凋2 2衛落?門の反逆の風評についての追及に、私月又左衛門父子は盟水をすするといのっとう古式に法る誓いをして他心のないことを示した。それからいくらもた