ブックタイトルac_cho_0006-3_takanabe
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あるが、横目(目付〉にはそれがなく、互いに監察し合って独立し、上は君側から町内、農村まで善悪邪正を監察し、月末自分の見聞するところを印封して藩主に報告し、家老であってもこれを披見することは許されない。藩主は年一回は直接彼らから報告を聞いた。横目が緊急に報告しようと思えば謁見はいついかなるときでも許された。後に大目付が設けられるが、このころは横目だけであった。その横目に自筆で横目の勤方心得を書き送った文書に次のような一節が占める。御家中しまりの為め仰せ付けられ候御役義に候。見せしめ仰せ付けられ候間其の節驚くべからざる事。(拾遣、巻一)すなわち監察役であっても家中しまりのため容赦はせぬという厳しさを示している。また、福嶋下横目にもその心得を書き示している。福嶋は高鍋より広き所にて候。諸事仕置き緩み無く申付くべく下横きぴ目を申付け候。少々の義も早く承り付け御法度背かず候様に調しく申付くべき事。委細は兼ねて神水仰せ付け置かれ候問、其の控を其の身居間に張付け朝暮披見致し、能く覚え失念無く相守るべき事。(拾遣、巻一)藩政建設期の高鍋また、御始末方横目の心得については、中元寺助右衛門、御始末方横目役仰せ付けらる。毎日御勘定屋へ相詰め、御損徳其の外、惣奉行、検者、組頭、惣検者、諸代官、船奉ぞんじより行、諸庄屋等善悪見及び、日々日記を付け、何事に依らず存寄(意見)申上げ候様仰せ付けらる。(拾進、巻一)と書き示している。第3章厳しさを示す例を挙げれば貞享元年十二月二日、ゆるが泥谷市右衛門、岩村忠右衛門、福嶋万事御仕置緩せに仕り、えかた(えこひいき)これあり、惣じて不しまり思召され、向後不届これじきあるに於ては切腹仰せ付けられ候由、(泥谷)次大夫に御直に仰せ付けられ候。ふと誰に依らず切腹仰せ付けられ候問、大事に心得ベき御意これあり。(拾遺、巻一)といっている。緩みきった藩政を正常な状態に返し、更に発展させていくためには、家臣の意識を一新しなければならないと固く決意していたことが見られる。現代的な表現をするなら「意識の改革」を目指していたと見られる。貞享元年六月九日、下野固那須の人、手塚喜五郎を新たに一五O石で召し抱えた。ところが、十二日内田久太夫と手塚喜内と税田久右衛門が昨夜御城へ詰めるのが遅かったというので、久太夫と喜内の二人は五O石減禄、税田久右衛門は=一七石五斗の減禄を申し渡した。久右衛門が役目返上を申し出ると、全知行を没収し平田へ牢人を命じたという事件がある。減禄を命ぜられると役目返上で対抗するというのが種春治世の家臣の意識であったのであろう。そのような意識を根底から崩していぐことに種信の目標はあった。拾遺木藩実録を編さんした横尾仲治は、これらについて次のように批判している。つつしんであんずる謹而按に、六月九日手塚喜内新知百五拾石下され、十二日に久太夫、喜内五十石づL召上げられ、今日は御返し下さる。旬日の内におそらく壱度は奪い両度は与え給うは信賞必罰の思召なるべけれども、恐は兵家威を立るの詐術に近し。王公臣民に臨み給ふの道にあらず。後代の法となすべからず。また、切腹を命ずる件については、謹而按に、刑罰は人君の私すべきものにあらず。御意の若きは詐術185