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概要

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世第三章藩政建設期の高鍋近第4編第一節種信の藩政改革の決意第二代藩主種春は近親結婚のゆえか、性格が弱く、権臣白井権之助とその子秋月又左衛門の二代にわたる専横を許してしまった。二人は落命と偽って正義派の旧臣を次々に殺裁し、あるいは出奔を余儀なくさせた。また同族の間柄でありながら私怨をもって殺害することもあった。そのため藩政は基本から乱れ、発展の見るべきものはなく、人材は欠乏ひっぱ〈し、財政は逼迫し、ただ、沈滞と混迷があるだけであった。幸い三代藩主種信は生来英逼剛毅であった。種信は明暦元年(一六五五)七月四日、二四歳になったとき初めて江戸から財部に下向した。落政の実体は新進気鋭の種信に的確に把握され、だれが正しく、だれが横暴であるのか、種信はその目で明らかに見定めていた。五年目の万治二年三六五九)の春、種春は参勤のため江戸へ、種信は参勤を終えて財部へ帰った。その秋、種春は江戸で病没し河野新五兵衛が追腹を切って殉死した。家督を継いだ種信は非業の最後を遂げた正義派の家臣を思い、又左衛門一派の勢力を一掃する機会を待った。きゅう種信は冷徹な一頭脳と果敢な決断力を持ち、不正を巌しく糾弾し、信賞必罰、時に過酷と思われる処罰を加え、史家の批判を受けたこともあった。しかし、混迷の後を受け、藩政を正道に返すためにはやむをえぬ処置でもあった。緩めれば安易に流れる人間の弱点を種信は洞察していた。既に退隠した後のことであるが、元禄九年(一六九六)正月、用人八回藤兵衛に家中の勤方心得を書き送った書簡や、横目(目付)の心得を示した文書に、種信の人間観や考え方、家中引き締めの強い決意が見られる。拾遺本藩実録記載のものを書き下し文にして次に示す。二十日(元保九年正月〉御隠居様(種信)より八田藤兵衛へ遣され候写左の通り。御家中縁組、或いは相役等仰せ付けられ候節、前後良く御吟味なされ候て仰せ付けらるべく候。惣じて人はしたしきにひかされる愚ところかなる意故、忠の道疎かになり候。しかし相応の者これなく、よんひいきどころなく仰付られ候はば、えかた晶買これ無き様に括言わせ候て、心底よくかため候様になさるべく候。人の心は定め難き物に候。無,、戸り二の忠臣と存じ候者も貧欲起り知恵を闇まし申し候ものに候。御心駄御ゆるし御油断なさるまじく候、只今まで行儀作法宜しからずと存じ候者も、一心の存じ入れにより心底格別に成り一偏に忠信これ在る義に候。善悪一偏に定め難く候。よくよく御心付け、常々その気(機)その気(機)を御考え、万事油断無く御仕置き遊ばされ候様、その方より申上ぐベく、且つ又、家老奉行右の通り相心得、事々物々緩み無く吟味深く、畢寛御為になる様、専要勤め仕るべき由也。184「人の心というものは情によって動かされ易く、無二の忠臣と思っていた者でも、貧欲によって知恵の曇ることがあり、人の心は定め難いものであるから、よく気を付けて使って行かねばならぬものだ。このことを、側用人であるその方から若殿様(種政)に申上げ輔佐するようにせよ」という内容である。すなわち、種信は藩内の実情や家臣の動きを把握するために横目を置いた。横目は後に目付といい、監察官である。通常の諸職務には長官があり同僚が