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概要

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ばこのとき取り崩されたのであろう。ω三代種信の時代種信は英遁な藩主であった。二代種春の代に権臣の権力争いから混乱を極め、お家騒動に発展していったが、種信は正義派を正しく見極め、果断に禍根を断ち、藩政を刷新して繁栄に導いた。外交的手腕にも優れ、老中久世大和守とも親交があり、親藩尾張徳川氏とも良く、京都公家衆とも交渉が多かった。寛文九年(一六六九〉財部城の修築を幕府に願い出て許され、種信は改めて城主になった。財部を高鍋と改めたのもこの年と見るべきである。高鍋城と高鍋の地名O寛文十年(一六七O)六月二十三日から杉ノ本門の石壁の普請が始まり十月成就、奉行は内田四郎左衛円であった。杉ノ本門は二の丸の正門で後に岩坂門と改名される。筑前秋月の城を杉本城といっていたので、その名を付けたのであろう。石垣も石段も当時のまま現存している。O寛文十=一年(一六七三)正月七日、高鍋城の本格的な修築が始まった。普請は「堀」から始まり、二月には堀の内側の土塁まででき上がった。この年皇居に火災があったので九月二十一日に「延宝」と年号が改められた。O延宝二年(一六七四〉九月十一日に二階建ての大手門が建ち、引き続き島回門、蓑崎門の普請も始まり、翌年の二月完成している。現存する明和六年七月の地震災害修覆願絵図および高鍋城古絵図によると、大手門・島田門・蓑崎門の壁や、それに続く堀の内側の土塁の上の築地も白壁で瓦ぶきになっている。「高鍋藩史一班」によると、更に序章O延宝四年六月、藩主の居宅を本丸に建て始め、十二月十六日に完成し、二の丸の仮住居から転居している。小給以上の上級武士は金三OO疋、中・下級武士(中小姓・徒士)は樽酒料を献上して祝賀している。O延宝六年六月、本丸入口の二階建て櫓門の普請が始まり九月に完成した。矢倉門と名付けた。寛文十三年一月七日の城堀の掘削から始められた高鍋城の修築は、矢倉門の落成によって完成した。城の完成の後、二百数十年の聞に大小の修理が行わ高鍋城の修理れた。記録のある主要なものを次に挙げる。O元禄十一年(一六九八〉九月二十八日の朝大地震があり、大手門の東側の石垣・大手橋初め域内各所が崩壊し、幕府の修覆許可の出たのが翌年であった。本丸の玄関前の矢倉門を長峰門、二の丸入口の杉ノ本門を岩坂門と改めたのはこのときである。作事奉行は河内山清八であったが、病気のため大坪武兵衛がこれに代わった。O宝永田年(一七O七〉九月、大風雨で城山が崩れ、大広間、勝手その他が破損し、十月四日には関東から九州まで大地震があり、高鍋も被害が大きく、大修理が行われた。ちなみに、この年十一月富士山の宝永山ができたのである。O享保十九年(一七三四)七月二十七日の大風雨では前代未聞の災害が起こった。拾遺本藩実録巻之八によると、御城山が横四六間(約九二M川〉高さ二O間(約四OMUが崩壊し、御書院、御番所、家老所・用人所・奉行所が残らず打ち崩され、死者一人、傷者一人、夜になって股様の居聞から下、台所の下まで南山の崖崩れが起こっている。本丸の主要な建物が崩壊し、その復興も容易でなかった模様である。拾遺本藩実録の序文に、141(十九年)惜哉藩史擢二一手保之厄享保甲寅残月梢存。惟録ニ奮武一而逸ニ惰文一、一山崩圧城B