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概要

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世由で、幕府はそれを容認して、る。本藩実録に書かれているO此節ヨリ財部ヲ高鍋ト御改被成候の「此節ヨリ」は、「御城修覆仕様一一相済城主-一被為成候」を受けると見るのが、構文の上からも内容的にも穏当である。わざわざO印を付けて「O此節ヨリ」としているのもそのためであろう。「正月七日ヨリ高鍋御城普請始ル」を受けるとするのは、構文の上からも内容的にも正しい解釈とは言えない。厳密に言うと正月七日は寛文十三年であって延宝元年ではない。財部を高鍋と改めたのは延宝元年ではなく、寛文九年とすべきである。「高鍋城主」とする許可を与えたのであ近第4編土持、伊東、島津の各氏の領有していた時代は、いわゆる群雌割拠の時代で興亡常ならず、城は戦いの拠点となるものであった、が、徳川氏の治世になっては泰平が続き、戦いのためばかりでなく、しだいに権威の象徴としての趣も加わり、その構造にも装飾的要素が加わってくるようになってきた。財部城も、私月氏の初めごろはまだ山城の状態であった。「本藩実録」の延宝元年の城の修築の記事の中に、「高鍋ノ御城久シク絶エ屋敷ガマへノ様ニ有v之一一付」と書かれている。それがしだいに近世的な誠に修築されてゆく経過を、「見聞年代記」「本藩実録」などにより年代を追って記してみる。初代種長の時代高鍋城の修築O慶長五年三六OO〉十月、関ケ原戦から帰り、種長は一0日間財部に滞在し、城の矢倉(櫓)などの普請を命じて福嶋(現在の串間市)へ帰った。O慶長九年三六O四)十一月、種長は政治の本拠を福嶋から財部へ移し、家中は翌年三月引き移った。福嶋から財部へ移った理由は明らかでないが、関ケ原の戦以後の種長の動静を見るに、群雄割拠の時代と異なり、中央の最高権力者と密接な連携を保たねばならない時勢を見て、交通上中央に便利な財部を選んだのであろう。O慶長十二年三六O七〉財部城の本格的な築造が始まった。最初の仕事は野首の掘り切りであった。財部城は牛牧台地が細長く東に向かって突き出た先端の部分にある。城郭となっている先端部分を孤立させるため、台地に続いている野首といわれる部分を取り除く工事が野首掘り切りである。約一OOM川ほどの聞を高さ三、四十M川の土砂を取り除き、城郭側は断崖絶壁となり、そこには野首番所が設けられた。取り除かれた土砂の量は恐らく数万立方M川に達するであろう。やぐらO慶長十四年C六O九)一誌の丸に三層の櫓が建てられた。櫓の立っていたところは、七三・六Mいんの頂上から十数M川下の南斜面の台地の部分である。現在は梅林になっているが、櫓の柱の根石と思われるもかわらのがあり、掘ると古瓦が出る。三層の櫓がなくなったのはいつのころか明らかでないが、五代種弘が既に享保八年(一七二一二〉天守台下に城主大明神を勧請したと本藩実録に書いているから、このころ天守台すなわち、三層の櫓はなくなっていたのかも知れない。また、藩政時代中期に描かれたと思われる古い絵図にも「天守台」として櫓の土台のみ描かれているし、文政十一年十月、則松長繕の「比木道之記」には、「故有て御取崩に成りし140よし申伝へし」と書かれている点から見ると、相当早い時期に取り除かれたものであろう。O元和元年(一六一五)に「一国一城令」が出ている。これは「一領国一城」という意味であるから、高城、金谷、福嶋に城があったとすれ