ブックタイトルac_cho_0005-3_takanabe
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いったん小さくすると、後に以前のとおり大きくしようと願い出てもたやすくは許可されないということだから、元のとおりに修覆することになった。ばならない。また、高鍋減と高鍋の地名この例から見てもいかに厳しかったかということ、が分かるであろう。明和六年(一七六九)の大地震のときにも、高鍋城の破損状況を絵図をもって詳細に報告し、修理箇所を詳細に示し許可を求めている。当時の幕府の制度では、大名には城主と無城主の別があった。藩領の大小に関係なく、無城の大名はその治所を「城」ということは許されやぐらず「陣屋」といい、櫓を建てること、堀を巡らすこと、外壁に銃眼用の窓を設けることは許されなかった。またその世継ぎは叙位任官されず、乗輿も許されず、家督を相続した後に初めて叙位任官され、乗輿を許された。城主の場合は家老も乗輿を許された。また天下の減数に定数があり、城主であっても無城の地に移封されると城を新しく築くことは許されず功労があれば城主格を与えられたという(高鍋落史一班巻之五)。以上のことから見ても分かるように、寛文十三年正月七日に高鍋城の普請を始めるまでには、いろいろな手続が必要であった。城主として認定されるための複雑微妙な交渉や、城の修築設計を作成提示して幕府の指示も受け、あるいは修正変更を受けるなど、さまざまな手続を経て初めて着工が許可されたのである。それでは城の修築を許された時期はいつか。「見聞年代記」によると、寛文九年三六六九)に「高鍋城修復の奉書出る」と記している。「寛政重修諸家譜」巻一、一八八の「大蔵氏秋月」の「種信」のところ序章「(寛文)九年高鍋城を破壊せしにより、御ゆるしをかうぶりてこれを修造す」と記している。本書は、寛政十一年、徳川幕府が若年寄堀田正敦の建議により、「寛永諸家系図伝」の続輯・改撰を企て、諸大名以下に家語その他の提出を命じ、林述斎らに編さんさせたもので、最も信頼のおける史料である。また、城勇雄編と思われる「秋月氏家譜」の寛文九年六月の項に、藩城ヲ改築シ財部ヲ改メ高鍋ト称ス。始メテ城主ト為ル。初藩滅版築完カラズ。邸宅ヲ見ルガ如シ。此一一至リ幕府一一請テ更一一修築シ乃豊臣家賜フ所ノ領地状ニ拠リ改号ス。と記している。そのほか、寛文九年としているものは、「隈江家記」、秋月種樹編さんの「秋月家譜」の後に付けた城勇雄の「書秋月家譜後」、城勇雄著の「高鍋藩史一班」、私月家文書の漢文の「秋月系図」の諸書である。以上のとおり、城主となり城の修築の許可せられたのは、寛文九年と見るべきであるが、「財部」を「高鍋」と改めたのも同じ時と見るのが穏当であろう。城主の資格が与えられ、城の修築が許されるとき、滅の名称を「財部」とするか「高鍋」と改めるか、当然幕府において検討吟味せられたであろう。名称の変更は幕府の許可がなければならなかった。元禄十一年(一六九八)大地震で石垣や城門が破損したとき、その修理と矢倉門・杉ノ本門を長峰門・岩坂門と改めたいと、幕府に願い出て許可を受けていることが本藩実録に記載されている。門の名称の変更でさえそうであるから、まして城の名称の変更ともなる地名の変更は、当然幕府の許可を必要とした。将軍の代替りごとに諸大名に与えられるちぎようあてがいじよう知行宛行状や、宛行目録の内容変更にもつながることであるから、幕府にとっても大事なことである。豊臣秀吉の知行宛行状に「高鍋」と書かれているから「財部」を「高鍋」に改めたいというのが、願い出た理139