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概要

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世近第4編三層の櫓を支えた石垣(最も古い石垣)の地点に三角点がある。ここからは四方の眺望がきき、高鍋を囲む台地の上も見渡され、いずれから近付く敵も発見できる。上から二段目は北側に張り出すやぐら台地で太鼓櫓があり、時刻を知らせる太鼓が打ち鳴らされていた。三段目の台地は南側にあり三層の櫓、後の天守台があった。現在は梅林である。梅林の南斜面には、いかにも古城らしい堅固な石垣が組まれている。築城当初に築き立てられたもので、三層の櫓を支えるための石垣であった。高鍋城の古い絵図を見るに、三の丸の堀際、二の丸の城壁の上、本丸の境にはいずれも白壁の築地塀があり、建物はすべて白壁であった。いかにも舞鶴の名にふさわしい美しい城であったであろう。三層の櫓のあった台地の東方から見下ろすと、城下町を含む高鍋の低地が一望できる。眼下の筏地域の上級武家屋敷に続いて、南北に延びる一筋街の商店街が昔の城下町であった。商店街の東側が字石原・蓑江で中・下級武家屋敷があり、商店街の北に続く小丸小路・宮越にも武家屋敷があった。商店街から東へ約二キロで海岸に達し、その北よりの小丸川河口近くにかけて港町の蚊口浦がある。蚊口浦は高鍋城下の物資のどん〈じ出入口である。蚊口浦と高鍋城下町との中ほどに、職人の住む道具小路がある。高鍋は寛文九年(一六六九)以前は財部といわれていた。財部城については、日向地誌に土着の人の伝える所として「文徳天皇斉衡(八五四1五七)ノ頃ヨリ土持氏累世ノ居城ナリ土人ノ伝フル所ニ拠レハ柏木左衛門尉ト云者創築セシ所136城主の移り変わりナリト云(下略)」と書かれている。既に第三編で詳述の通り、高鍋藩貞享寺社帳の「財部土持氏系図」によると、応安五年(二二七二)のころ土持氏の一族が財部城に居城していたことを示している。その後、財部土持氏は、長禄元年(一四五七〉七月伊東祐莞によって亡ぼされ、祐莞はその部将落合民部少輔に財部の地頭職を与えた。落合氏は天正五年(一五七七)まで一一一0年間、地頭を世襲し財部城に居城した。天正五年十二月、伊東義祐が島津氏に逐われ、大友氏を頼って曲一一且後にのがれると、島津義久は財部城に川上忠智を置いて固く守らせた。天正六年十一月、大友宗麟の日向侵攻の軍を高城川原に撃破した後は、財部城の地一頭は鎌田政心にかわり、天正十五年に秋月種長が移封されるまでの一0年聞は島津氏の支配下にあった。第二節高鍋の地名と高鍋城の修築朱印状と豊臣秀吉は九州征伐の後、秩月種長を筑前秋月から日あてがい向国財部へ移封し、下関において次のとおり知行宛行高鍋の地名の朱印状を渡した。今度為ニ御思地一、日向園高鍋城被=仰付一候条、同其廻明所分之事、被ニ宛行一皐、但知行方自録従ニ中納言一(秀長)請コ取之一、全令ニ領知一、自今以後可v抽ニ忠功一之由候也天正十五(年〉七月三日(秀吉朱印)