ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

ac_cho_0005-3_takanabe

序章高鍋城と高鍋の地名放は商店街の西方の丘陵に築かれ、最も高い所はたからべとその名称七三・六U川で、古くは「財部城」と呼ばれていた。後に「高鍋城」と改められた。通称は「舞鶴城」という。城郭の白壁が緑に映える美しさからその名が出たのであろう。水をたたえる城掘の残っている県内ただ一つの城跡であり、春は桜、秋は紅葉、またここには特に多い山椿や、山茶花、そのほかがその時々に咲き、小鳥がさえずり、町民の憩いの場となっている。昭和十四年国指定の風致地区、同五十二年三月二十六日、町指定文化財(史跡)、五十三年には日向百景の一つに指定せられ第一節高鍋城と城主高鍋城の所在地高鍋城と高鍋の地名序章高鍋械の遠望-E Oふれ神亀四年(七二七)柏木左衛門尉が築いたという伝えがある。当時は単なる山城であったであろぅ。実戦的であるよりは、為政者の権威を象徴する近世的な城郭として整備されたのは、第三代藩主秋月種信のときである。豊臣秀吉の朱印状にも「高鍋」とあるから「財部」を「高鍋」に改めたいと願い出て、幕府から許可せられ城主として認められたのが寛文九年(一六六九)で、修築に取りかかったのは同十三年(一六七三)正月七日であった。その年の九月二十一日、年号は延宝と改められた。本丸の矢倉門以外の普請が完成し移転の終わったのが延宝四年三六七六)十二月十六日で、祝賀の能楽が行われた。本丸奥殴の着工が同五年七月、本丸入口の矢倉門(後、長峰門)の完成が延宝六年三六七八)九月であった。着工から五年九か月を要し、高鍋城の修築はすべて完了した。新築の白壁の城郭が朝日に映える姿は、領民に目を見張らせ、舞鶴の名にふさわしい城の偉容であったであろう。高鍋械は堀・門・三の丸・二の丸・本丸・詰の丸の六つの部分からなる。外堀の役目は、大手門の東七、八Oい川のところを北から南へ流れる坂田川が果たしていた。高鍋城の概観内掘に当たるのが現在も残っている堀で、城の東正面を弧形に防備し、城の内外の境となっている。域内に入るには、東正面の大手門、北側の島田門、南側の蓑崎門の三つがあった。掘の内側が三の丸。三の丸の北側に普請方・勘定所、中央に廉の屋敷があり後に藩校明倫堂が建てきゅうしやられ、南側に家老屋敷、その西に厩舎があった。岩坂門という域内門の内側が二の丸で一段と高い。岩坂門を入ると右手に八幡宮・白山宮、その東に大楠、南側に武器庫・朱印蔵があった。東正面の長い石段を上り詰めると長峰門がある。その内側が本丸で藩政庁があり、その奥の一段高い所が奥御殿である。政庁の西側の急坂を北寄りに登って行くと、そこが詰の丸で四段になっている。最上段は約二川Iの広さがあり、古くは「おじようの松」という大木があったという。今は標高七三・六M川135