ブックタイトルac_cho_0005-3_takanabe
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世(高鍋藩領図により、国富町税務課後藤氏談)近吉岡鍋藩領の表高は、初め三万石であったが、元禄二年、種信が三男種封に木脇地域三千石を分知させてから、表高は二万七千石となった。しかし、農山林生産が財政の基盤となる時代であったため、歴代の藩主は耕地の拡大、生産の向上に最大の努力を傾けた。したがって実質的には、逐年耕地も広くなり、生産高も増加している。寛文四年(一六六四)四月、種信が幕府に差し出した「秩月領地覚」の末尾に「右之外-一開発地壱万千五百石」としているように、既にこの時期に開発が進んでいたことを示している。また一方では、(貞享元年十二月)八日御領内御内検高都合弁新田何程在之段又は御金御物成之員数親子兄弟たりとも取沙汰仕間敷其員数書付差上時分幾重も封し役人印判仕リ組末仕間敷若脇より取沙汰仕由被聞召候(議〉ハ、御詮義之上厳科一一被仰付由也(拾遺本藩実録巻之一)と記している。すなわち、御内検高や、開発水田の面積、御金、物成とりざた(年貢〉などの員数は、たとい親子兄弟たりとも取沙汰してはならない。また、その員数を書き付けて差し出す場合は幾重にも封をして役人が印判をなし、決して粗略の取り扱いをしてはならない。若し脇から漏れるときは御詮議のうえ厳科に処するというのである。幕府に対してもこれらを秘匿していたことは、嘉永七年(一八五四日安政元年〉九月、幕府に提出した郷村高辻帳の末尾に、高鍋藩領の郷村高第4編外壱万千五百石(一七四五〉(種美〉右者古来よりの開発にて、延享二年御改之節、高祖父佐渡守代書上申候通御座候。其以後改出新田無御座候以上と記している。すなわち、郷村高二万七、000石のほかに一万一、五00石あるのは古来からの開発で、九一年前の延享二年の御改の節、高祖父佐渡守種美のときに書き上げて報告したとおりであります。それ以後の開発の新田はございませんというのである。郷村高辻帳を提出したのは第十代藩主佐渡守種肢である。しかし、別表に示したとおり、これより二O年前調査の「天保郷帳」の合計高は、四万二、五七三石八斗九升で表高より一万五、五七三石八斗九升多く、古開発の一万一、五OO石を差し引くと、四、O七三石八斗九升の新開発耕地があったことになるのである。天保郷帳は天保二年(一八三一)に着手し、同五年に完成したものである(木村礎校訂「旧高旧領取調帳解題」近藤出版社刊)。160また弘化元年(一八四四)の記録によると次のとおりである。六一二、六三四石五斗九升内古高田四五、二七一石五斗四升二合畠四、七O六石五斗四升屋敷四、二五八石田斗三升一合古高合五四、二三六石五斗一升三合新高回七、六八七石八斗五升一合一、一六三石四斗六升八合五四六石七斗五升八合九、三九八石O斗七升七合物山吉向畠屋敷新高合その内容を検討してみると、惣高六万三、六三四石五斗九升から新高九、三九八石七升七合を差し引いた残りの五万四、二三五石八斗二升のうち、表高が二万七、000石で、それを差し引いた残り二万七、二三五石八斗二升が古い開発地であり、そのうちから更に古開発の一万一、五OO石を差し引いた残りの一万五、七三五石八斗二升が、延享二年か