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概要

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部に送り届けたことが西藩野史に記されている。ながつね大垣城にこもっていた秩月種長は、弟高橋元種、相良長毎と談合し、九月十八日、垣見和泉守家純・熊谷内蔵允直陳・木村惣右衛門勝正を討ち取り、水野六左衛門勝成の執り成しによって家康に降り、種長・元種・長毎はいずれも旧領を安堵された。後世の評価は観点によりさまざまであるが、その場に当たっての状勢の洞察と決断は一国一藩の興亡にかかわる。天正十五年、巌石城におけりゅうざんる秀吉との対決の決断は、筑前秩月の没落を招き、日向流震に等しい処遇となった。関ケ原の戦いは天下分け目の戦いと評価された。戦いの最中における種長、長毎、元種の決断は、秩月氏、高橋氏、相良氏の存亡の一点からいえば賢明であった。七月十九日種長公伏見御出陣。八月一日落城。十月中旬種長公御帰国。高鍋へ十日御滞留。御城矢倉等之並日請被ニ仰付一。十一月上旬福嶋へ御帰域。此上家中安堵セリト。(本藩実録巻之二)それより四年後の慶長九年三六O四)十一月、福嶋から高鍋へ移転し、菩提寺安養寺も福嶋今町から高鍋へ移した。家中の者も翌年三月までに移転した。種長は文禄四年(一五九五〉から約一0年間福嶋に住んでいたことになる。手よ月氏財部に入る慶長五年、家康からの旧領安堵が高鍋藩の成立であった。家康の朱印状の存否は明らかでないが、次の文書がある。拝領仕知行方目録日向園児湯郡門ハハ一高壱万弐千四百五石弐斗八升新納院第l章一高三千百七拾七石三斗四升諸県郡之内円U七ケ村一高九百弐拾九石弐斗宮崎郡之内兼崎三ケ村一高壱万三千四百八拾八石弐斗円-U内福嶋院高石合参万石ハ少輔骸〉門原)右之分去慶長五年ニ井伊兵部口口口榊口(之〉式札一対輔般御承ニ而埠一拝領仕候右口口口〈度〉近年御役目等をも仕候此口口口御朱口(以〉頂戴仕度候口上秋月門川U鹿長姶八年三月廿四日成瀬隼人正殴安藤帯万般本多上野介股(高鍋図書館所蔵〉右の文書から見ると、関ケ原の戦いの終わった慶長五年に高合三万石を安堵され、そのときの老中井伊兵部少輔直政、榊原式部大輔康政二人に承認され、確かに拝領していたのであるから、御朱印状をちょうだいいたしたいという文書である。文書のあて名の三人はいずれも慶長五年に老中となり、成瀬隼人正正成、安藤帯万直次は家康の死去の元和二年四月に退任し、本多上野介正純は元和八年十月退任している。:慶長十八年の前記文書によって家康の朱印状が与えら高鍋港高れたのであろうが、文書は残っていない。右の文書の内容を見ると、元和三年(一六一七)五月に二代将軍徳川秀忠から与えられた知行宛行状、寛文四年、第四代将軍家綱から与えられた知行宛行状とは、総石数の三万石は一致するものの、地域別の石数には第2表に示すように多少の相違がある。寛文四年の知行宛行状は従来の誤りを修157