ブックタイトルac_cho_0005-3_takanabe
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世財部に着いて四か月後の翌年正月には、肥後の佐々陸奥守成政が秀吉の訓令に違背し、処置を誤ったために、国侍の武力蜂起という大騒動が起こった。秀吉は肥後周辺の大小名に一挟鎮定と成政追討を命じ、種長もまた兵を率いて出陣した。成政は上洛し、五月切腹を命ぜられてようやく落着し、種長は財部に帰った。その閏五月、種長は初めて上洛し長門守に任ぜられ、伏見の高山右近の家屋敷を拝領し、八月下旬帰国した。翌天正十七年は五月上京、十一月帰国、十八年には二月上京、小田原の北条氏討伐の参加を願い出たが許されず、朝鮮征伐の用意のために帰国を命ぜられ三月帰国した。歳末再び上京、小田原征伐の秀吉を清洲城まで出迎えて後、帰国。近第4編天正十九年は正月上京、十一月朝鮮出征のため肥前名護屋城普請に参加した。文禄元年(一五九二)三月五日には兵五OOをもって朝鮮渡海、文禄四年いったん帰国し、慶長二年(一五九七〉に再び出兵している。藩翰諸にも「朝鮮の寧起りて彼国におしわたり、かしこ愛に戦ふ事七年」と記している。種長がその政務の本拠を財部から福嶋に移したのは朝鮮からいったん帰国した文禄四年(一五九五)である。本藩実録は「是歳福嶋へ御越家中屋敷相渡ル秋中普請ノ筈也」としている。その翌年、文禄五年九月二十六日に父種実が伏見で死去している。五二歳。京の紫野大徳寺内の見性庵に葬り、この歳福嶋に西林院を建立して祭った。二度目の渡海の時期は明らかでないが、次の文書は再度出兵する前の、慶長元年(一五九六)四月十六日と思われる。というのはこの年の正月、明使の渡海と朝鮮王子の来謝を求める秀吉の命が出されており、その九月一日に大坂城で明使引見が行われ、直ちに再征が決定せられているからである。156(地)小西摂津守任到来被成御朱印候其他在番永々辛労共候弥普請番等無油断可申付候大明随返答来年御人数被指遺急度可被仰付侯可成其意候尚山中山城守可申候也卯月十六日(秀吉朱印)秋月一一一郎とのへ(秋月文書高鍋図書館蔵)慶長三年(一五九八〉八月十八日、秀吉は六三歳をもって伏見城に没し、朝鮮の戦いも終わった。種長も永い戦陣生活を終わって帰還すると、翌慶長四年、庄内の乱が起こった。すなわち薩摩の内紛、伊集院源次郎の反逆事件である。五大老の筆頭、徳川家康から源次郎忠真の討伐に助力するよう命ぜられた種長は、内田仁右衛門・大坪善蔵・柏嶋玄蕃を大将として討伐に参加させている。伊集院源次郎の諒伐が同五年二月に終わるとやがて関ケ原の戦いが起こるのである。げき慶長五年、石田三成らの機に応じて七月十九日、種長は伏見に出陣、島津義弘らの諸将とともに、伏見城に鳥居元忠・内藤家長らを攻め八月一日落城。種長は弟高橋元種、相良町両信らと瀬田を経て大垣にて三成の本軍に加わった。後にらは関ケ原に陣し、種長・元種・長毎らは留まって大垣を守った。九月十五日、東西両軍は関ケ原に決戦し、初め西軍が優勢であったが小早川秀秋が東軍に応じ形勢逆転して西軍は大敗した。島津義弘は家康の陣頭を突破してかろうじて戦場を脱し、伊賀・和泉を経て摂津の住吉から船で鹿児島に帰っている。そのとき義弘は、大坂に人質としてとどまっていた広瀬夫人を救出して帰るとき、忠恒夫人と秋月夫人をも救出して財高鍋藩の成立