ブックタイトルac_cho_0005-3_takanabe
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行成。然ルニ島津方便ヲ以テ志布志ノ返地ヲ諸県-一出シテ志布志ヲ知行セラレケリ。右のような事情で諸県は秋月氏の所領となることになった。種長に与えられた領知目録には地名と面積とを示し、石高は記載されていないが、その草高が三万石に相当するのである。もとより太閤検地以前であるから一反三六O坪である。にいろいん「新納院」については中世編に詳しく述べられているが、大略は児湯郡の東部を指し、高鍋藩領では美々川の北岸、現在の日向市幸脇から以南、新富町北部三納代まで、西は尾鈴山の察側までである。「櫛間」は現在の串間市全域で、新納院より面積が広い。「諸県郡之内」としている地名を現在の地名で示すと次のとおりであwhv。かねさき(金崎):・;:::::宮崎市よしの(吉野)・::;・・:宮崎市つつみうち(堤内)・:::宮崎市いわちの(岩知野〉:・::・国富町ふすま回(会田〉ja-- :国富町ミや王まる(宮王丸)::::国富町秋月氏財部に入るきんとみ(金留〉・:::・:国富町けいたとい松(潤田豊松)・:国富町きのわき(木脇):・::::・:国富町いさ生(伊佐生)::国富町三ケミゃう(三名〉:;::::国富町第l章第二節高鍋藩の成立種長の一行は船で財部に着いた。当時船で移動できるに人数はそれほど多くはなかったであろう。筑前・筑後・豊前の三国一一郡を支配した勢威から見て、家臣の数は多く、その一族郎党まで入れると極めて多数で、恐らく陸路をとって財部にたどり着いたものであろう。筑前時代の文書を元明倫堂教授城勇雄が書き写したという文献に「秋月家百人宿老千人近習帳」というものがあり、恵利内蔵助の名も見えるが、宿老百人近習千人というのは、家臣の数が非常に多かった証左であり、歩卒まで入れると相当の数となる。本藩実録巻之二に次の記事が見られる。古所城ハ生駒雅楽頭へ渡之家中ト共ニ古所ノ麓江川ノ里へ移リ玉フ。江川ハ古所山ノ麓谷合アリ。三里ホト入コミソノ間今回畠トナル。江川ノ内ニ日向士ト云処アリ。当時黒田侯ノ地也。此処ニ種実公先手足軽五十人アリ。日向へ御渡ノ節目向マテ御供イタシ文帰国セシヨシ。子孫今ニアリト云。いったん日向へ移動したが、再び筑前へ引き返しそこに定住し、子孫も今に住んでいるという記事である。このようなことはほかにもあったであろう。俗称ながら三六万石といわれた所領から、わずか三万石の地に、多数の家臣が安住することは困難であった。初めから移動を断念した者、途中に住みついた者もあったであろう。秀吉の知行宛行状は「高鍋減」の宛行であるから、種長の本拠は高鍋であったが次に見るように東奔西走し席の温まる暇も無く、政務は父種実の後見するところであったかとも思われる。秋月氏財部入る15