ブックタイトルac_cho_0005-3_takanabe
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秀吉の本軍は、種実・種長に先手を命じ、筑後を経略して肥後に入り、佐敷から兵船を利して出水に至り、四月二十五日川内に入り太平寺に宿った。島津義久は秀長に対して伊集院忠棟を質とし、五月一日義弘とともに日向都於郡をたって鹿児島に帰り、伊集院の雪窓院にて薙髪して竜伯と号し、八日、太平寺に入り降を請うた。秀吉は直ちにこれを許し、九日朱印を与えて薩摩を領有せしめた。関門海峡を渡ってわずか四O日そこそこで九州平定を実質上終わった秀吉は、なお鹿児島方面の処理に日を費やしたが、五月二十七日曽木を発して肥後に入り、六月七日筑前箱崎に至り、しばらく滞在して九州の封域を定めた。秋月氏財部に入るその概略を言えば、小早川隆景に筑前(福岡〉、黒田孝高に堂前津)、大友義統に豊後(大分)、佐々成政に肥後(熊本)、立花宗茂に筑後柳川、竜造寺政家に肥前の六郡、北高来郡と養父郡の半ばを鍋島直茂に、そのほか有馬晴信、松浦鎮信、五島純玄らにいずれもその旧によって本あんど領を安堵した。また相良頼房に肥後の球摩・葦北二郡を与え、日向においては、伊東祐兵に飲肥・曽井・清武を、高橋元種に県・三城(日知屋・門川・塩見)、私月種長に新納院・櫛間・諸県の木脇そのほかを、島津家久に佐土原・都於郡・三納・穂北・新田を、島津久保に諸県を領有せしめたのである。中第1章その旧領との比較から見れば、最も強く抵抗した島津義久、義弘の処遇は最も寛大であり、秋月種長の処遇は最も過酷であった。封を筑前から日向に移されたうえ、旧領の一O分の一にも満たぬ所領であった。巌石城における種長の抵抗の決断は大きな代償を必要とした。戦国武士の状況洞察と去就は、おおむねかくのごとくであったであろう。関ケ原の戦い、幕末の転換期も注視する必要がある。あてがい秀吉から秋月種長に知行宛行の朱印状が与えられたのは天正十五年(一五八七)七月三日下ノ関においてであった。本藩実録には次のように書かれている。(天正十五年七月)五日過長門下ノ関へ(秀吉)渡海九州配当アリ。種実公父子ハ江川ニ御陣アリ。三日過ギ種長公下ノ関へ御渡海日向ノ内三万石ノ朱印ヲ受ケ八月下ノ関御立。曲一一旦前今井ノ津ヨリ御乗船-一テ九月三日高鍋へ御着ナリ。種実公ハ筑前ヨリ直-一上洛シ玉フ。問。(巻之二)秀吉から与えられた朱印状は序章第二節(二二六頁)に示したが、当時、地名は財部と呼んでいたはずなのに「高鍋城」と書かれていることについても、既に述べたとおりである。種長財部移封「中納言秀長より請け取れ」といわれた「知行方自録」は、翌天正十六年に受け取っているので、このときは「知行宛行状」だけを受け取って八月下闘を出発し、曲一一旦前国今井ノ津から乗船し、九月三日財部に到着した。本藩実録が「高鍋」と書いているのは、著述当時の地名で書いたものであろう。今井ノ津は、現在行橋市放川の河口に今井という所がある。昔は今井ノ津といったのであろう(行橋市教育委員会)。種実は秀吉の後を追って上洛したという。本藩実録に引用されている一書によると、この年から種実は福嶋の金谷に、種長は財部に在城し、筑前から秋月氏の菩提寺、秋月山安養寺を福嶋今町へ建立している。知行方目録は、翌天正十六年受け取っている。日向国知行方目録新納院三百町四百町櫛間153以上七百町