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概要

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れている。秋月氏財部に入る秀吉征西の動きは早くから伝えられていた。島津の将で宮崎城主上井覚兼の日記の中に、秀吉から島津義久に送った天正十三年十月二日付けの文書が記載されている。えいりよそれによると叡慮を奉じ大友氏との抗争を止めるように諭し、命に従わねば成敗を加えると言っている。-Cつル』自然不ν被ν専ニ此旨一候者、急度可v被v成ニ御成敗一候之問、此返答、各為ニ者一大事之儀候。有二分別一可v有ニ言上一候也(土井覚兼日記下)義久は、秀吉来攻に備え、同十月二十四日に諸将に忠誠の起請文を童聞かせている。秩月種長父子も、秀吉の人物・識見・真意を探らしめようとして、恵利・内田を派遣したものであろうか。このことについては、今も筑前秩月町(甘木市)に腹切岩があり、後世さまざまな伝承が見られるが、本藩実録の原文を引用し、参考文献も注記しよう。O天正十三年乙酉(種長)御家督。是歳恵利内蔵助・内田九郎左衛門秀吉公之様子見分之為メ大坂へ登リケル処ニ諸家一統秀吉公へ降参ノ趣ニ依テ内蔵助秀吉公へ見へ内々降和ノ旨ヲ申入ル依之秀吉公ヨリ秩月家本領安堵ノ朱印ヲ賜ヒ内蔵助ヘモ褒美トシテ所領ヲ賜ハリ内蔵助朱印持帰リケル処ニ数年島津家ト御申合セ有之ニ付秀吉公ノ朱印御請ナク其上内蔵助私ノ取計ヲ以テ降和ヲ入レ且ツ自分ノ所領マデ請来ルノ罪ヲモッテ諒セラレ(按別書-一内蔵助切腹トアリ)。(本落実録巻之二)ケルト也(旧記)第1章すなわち秋月種長は、秀吉の様子を探索させるために、恵利内蔵助ほか一名を大坂に派遣したところ、諸侯一同秀吉へ降参の様子であるから、秀吉に見えたうえ降和を申し入れた。秀吉は秋月家の所領の領有をほうひ.認めるという朱印状を与え、内蔵助にも褒美として所領を与えた。内蔵助がこれを持ち帰ると、種長は、数年このかた島津家と盟約を結び、秀吉を阻もうと申し合わせているゆえに朱印状を受けず、そのうえ内蔵助ちゅうが独断で降和を結び、そのうえ自分の所領まで受けてきた罪をもって諒せられたということであると旧記にある。別室百によると切腹したとも記されている、というのである。以上は本藩実録に記されたところである。(注)O恵利内蔵助関係の文書・書籍「高鍋藩本落実録」(大塚静氏編寛政九年(一七九七)宮崎県史料第巻〉(貝原益軒編元禄十六年(一七O三)益軒全集昭和十八年)巻之「筑前国統風土記」四、福岡県史資料「鳴渡山音声寺縁起」「恵利内蔵助暢莞が事」(音声寺文書)(右二書は「旧志に拠れる筑前秋月家の研究」所載)「望春随筆」(平田胤富著天保五年)「旧志に拠れる筑前秋月家の研究」「物語秋月史」「秩月史考」続第四輯(音声寺文書)(田代政門箸)(三浦末雄著)(田代政栄著)「高鍋藩史話」「恵利内蔵助のこと」(安田尚義著)(佐藤洋一著)種実・種長巌石城の攻撃は四月一日に、東西両面から行われた。秀吉に降る丹羽少将秀勝を大将とし、西の大手口添田村から蒲生からめて飛騨守氏郷、東側の揚手、赤村から前田肥前守利長がこれを攻めた。「寄手大軍トイヒ、殊一一秀吉九州手始メノ軍ナレバ諸勢只一課-一ト攻寄ケル」とは九州軍記の叙述である。川角太閤記によると、151