ブックタイトルac_cho_0005-3_takanabe
- ページ
- 18/44
このページは ac_cho_0005-3_takanabe の電子ブックに掲載されている18ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ac_cho_0005-3_takanabe の電子ブックに掲載されている18ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ac_cho_0005-3_takanabe
世第一章秋月氏財部に入る近第4編第一節秀吉の征西と秋月氏の移封秋月氏は筑前国の中央部夜須郡秋月(甘木市)の古所山城を本拠としてその勢威は筑前・筑後・豊前の三国のうち、一一郡に及び、俗称三六万石の太守といわれた。その秋月氏が、高鍋城の城主となった経緯をたどってみよう。都於郡を本拠としていた伊東義祐は、元亀三年(一五七二)木崎原の戦いに島津氏に敗れた後、没落の一路をたどり、大友宗麟を頼り豊後に落ちて行った。宗麟は義祐に請われて日向侵入を決意し、天正六年(一五七八〉四月、日向の国境を越え、島津氏の孤城新納院高城に迫り、十一月十二日高城河原において日向未曽有の激戦を交えたが大敗し豊後に退いた。大友方が退くほど島津勢は北へ進み、豊後国深く侵入した。これよりさき、弘治三年(一五五七)、秋月種突の父種方は、大友の軍に筑前の秋月城を攻められ、逆臣小野九郎右衛門の大友への内通により敗死し、その子種実は、中国の毛利元就を頼りその庇護を受けた。永禄二年(一五五九)種実は周防固山口から起こり、分散した家臣を集め、毛利元就も二千余騎を出してこれを助け、漸次旧領一一郡二六域を回復していった。そして種実は、天正六年大友勢が新納院高城において島津氏に敗れると、島津氏と協力して大友包囲の策を立てた。大友宗麟は形勢の非を悟り、みずから大坂城に秀吉を訪ね、九州の状勢を訴えその征西を要請したのである。秀吉征西の動機かねて九州を征し、島津攻略の機をうかがっていた秀吉はこれを好機とし、諸国の群雄に令して出兵を命じ、みずからは天正十五年(一五八七〉三月一日大坂を出発した。その動員した兵員は三七か国、二五万といわれた。秀吉の義弟羽柴秀長は、秀吉の下関到着に先立って、小早川よしたかけいじゅん隆景・吉川元長・黒田孝高・宮部継潤・蜂須賀家政らとともに、豊後を経て日向に向かって進撃した。島津の主将家久は豊後から退き、兄義弘とともに梓山を越え、新納院高城に宿り、三月二十日都於郡にて義久に会い、二十二日佐土原に帰った150秀長の軍勢はこれを追って新納院高城に押し寄せ、高城域外から財部の聞に五一か所に塁を築きこれを包閉した。城主山田新助有信は寡兵をもって竪くこれを守った。島津義久は、四月十七日、義弘・家久の両弟とともに、兵力二万余人をもって根白坂を襲い、その堅塁の奪回に死力ただちかを尽くしたがついに抜くことを得ず、忠隣以下数百人を失って敗退し、力の差をはっきりと認識せざるを得なかった。一方秀吉の本隊は、三月二十八日関門海峡を渡って小倉に至り、馬ケがんじゃ〈岳城を収めて巌石城に迫った。巌石城は秩月氏の属城で、豊前国添田にあり、筑前国との国境近くの要衝で、標高わずか四四六メートルの山しゅんけんであるが、その名のとおり全山黒雲母花山岡岩からなり、地形が峻険なうふかんぇ、山頂からは田川盆地の南半分を術撒できる要害の山城である。城主隈江越中は一O目前に病死し、桑野新兵衛・深見駿河守父子・隈江右衛門・添田新助・林又右衛門らがたてこもり、特に勇名をとどろかす芥回悪六郎兵衛が加わって堅くこれを守っていた。恵利内蔵助、秀吉にこれよりさき、天正十三年、秋月の臣恵利内降和を申し入れる蔵助が秀吉に降和を申し入れたことが伝えら