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概要

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けいζ稽古所を置き七代種茂のとき、ここに藩の学校を創立して明倫堂と名付けた。現在の農業高校のグラウンドの北西の隅である。明治=一年これを北東の高い所、現在の農業高校校舎の位置に移転拡大した。ω籾倉・普請方・勘定所船倉は島田門の東に堀に添って建てられていた。西南戦争の際、官軍たねよちようぞうに心を寄せていた秩月種節、黒水長髄ら九名が、参軍坂田諸潔のためにこの籾倉を仮牢として押し込められ、秩月種節は桜花かすみこめても香ばかりは都に送れ峰の春風の一一誌を残し、病のために牢中に没した。ほかの者も危いところを官軍に助けられて九死に一生を得た。乱後、黒水長憶は籾倉を記念のため払い下げを受け、自宅に移し今も黒水邸に残っている。普請方は籾倉の南、島田門の東側の広い地域で、城の修築、掘の管理、寺社建築などの建設関係一切を管轄した。勘定所は島田門の西南、道から西にあり、検地、検見、年貢、租税など一切を取り扱い、勘定奉行がこれを支配した。第四節廃藩と藩庁高鍋城と高鍋の地名慶応三年(一八六七〉十月十四日、将軍徳川慶喜は大政奉還の上表をたねとみ朝廷に提出した。藩主種肢は、明治二年(一八六九〉六月十九日、封土を朝廷に奉還。七月十四日、廃藩置県の詔書が発布せられ、高鍋藩は高鍋県となった。次いで同十一月十四日、全国の県の改廃が行われ、日向園には大淀川を境として美々津・都城の二県を置き、高鍋は美々津県に属した。五年二月、高鍋域内の政庁は美々津県庁高鍋出張所となった(美々津県史)。序章明治六年(一八七三)一月十五日、美々津、都城両県を廃し初めて宮崎県を置き、二月県庁として宮崎郡上別府村戸長所を借り上げ、仮県庁とした。やがて高鍋出張所も廃止され、旧高鍋域の建物も解体されていくのであるが、その過程を記録しておかねばならない。宮崎県庁は上別府戸長所を仮庁舎としたものの、狭くもあり事務取り扱いにも支障があり、急いで庁舎の新築をしなければならなかった。そのため、旧高鍋域内の建物を移転しようという案が出てきたのである。そのとき、旧高鍋域内の建物は競売して払い下げの運びになっていた。「宮崎県史」(編者不明、高鍋図書館蔵)に宮崎県庁新築について次のように記載している。県庁新築明治六年二月県庁新築-一着手ス・今般当県新一一御設置相成候一一付而ハ至急県庁取建不申候而ハ事務取扱差支仮令仮庁設ケ候市モ手狭之場所大一一及混雑候-一付伺済之上取掛候義当然ニ御座候得共遠隔之地往復之間時日ヲ経候而者別而差支罷成候一一付直様御沙汰之場所へ造営ニ取掛可申尤明細積書之儀者追市取調可申出候間可然御聞置被成下度決而過当ノ造営不仕候此段及御届候也明治六年二月十二日(県)宮崎参事福山健偉大蔵大輔井上馨慰指令書面届県庁建築之儀不経伺営治取掛候趣不都合ニ侯条篤ト調査之上明細積書ニ図面添付シ早々可伺出候事明治六年三月十日147