ブックタイトルac_cho_0005-3_takanabe
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世たついね辰戊(午前八時と午後八時)五つみい巴亥(午前十時と午後十時)四つ帥朱印蔵と武器庫二の丸には朱印蔵と武器庫があった。元禄七年(一六九四)四月十九日「御朱印蔵出来」と記されている。御朱印とは将軍が藩主に与える知あてがいじようお行宛行状と宛行目録である。将軍の朱印を捺してある文書で朱印状という。将軍が代わるごとに前の朱印状を返して新しい朱印状を受け取る。これを「御朱印改」といった。延享三年(一七四六)=一月、公義御世代ニ付御朱印御改有大目付岡本丹下持参出府(本藩実録巻七)古い朱印状は必ず写しを保管した。最もたいせつな文書であるから、保管のための御朱印蔵を造り、そのほかの貴重な文書類や軍用金なども格納されていた。次のような記録がある。安永元年(一七七二〉八月八日御馳走御控一一付銀百五拾貫目余御朱しのぼせ印蔵ヨリ取出御仕登(続本藩実録巻=一)ちそう御馳走御控とは勅使接待の控役のことで、その費用として江戸へ送金したのである。近第4編武器庫の詳細は明らかでないが、多くの武器があった。特に幕末には多くの銃砲が購入され鋳造されている。元治元年十二月上旬、安田守世、岩下柳助に命じて谷坂に銃砲鋳造所を設けさせて小銃・大砲を鋳造させている。慶応元年(一八六五)七月四日、金五拾疋安田李仲(守世)同百疋岩下柳助右谷坂大砲鋳立之節致ニ大義一候ニ付頭書之通被v下候(続々実録巻十)大筒(大砲〉の鋳造試射は既に宝暦十一年(一七六一)にも行われていヲQ。146明治五年各藩所有の武器を調査し新政府に引き取る武庫司が九月二十九日に高鍋へ巡回した際、大蔵省へ引き取るべき武器を美々津県に預け置いたという宮崎県古公文書があり、次の兵器が記載せられている。一、鹿児島製四斤半砲但し前車相添同四斤山砲弾三八発一、四斤山砲照尺一、四斤山砲但し斤目百七十斤門四組五門また、明治六年十月三十日、調査もれの砲弾一、四斤山砲弾六五二発内霞弾二一発これらはすべて二の丸武器庫にあったものであろう。高鍋の大クス(天然記念物〉ヴー八幡宮の神木といわれ、樹齢五OO年といわれている。大グス昭和二十六年六月九日、国指定の天然記念物。藩校明倫堂大手門からの道が大クスの下で、南北に通ずる道に突き(8)当たる南の角のところを古くは角の屋敷といった。五代種弘のとき、ここに学問武芸の