ブックタイトルac_cho_0005-3_takanabe
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世一石二斗五升を供えた。天慶中勧請の際、筑前国鞍手郡宮永村の名家宮永氏を宮司とし、日向固に移るとき宮永加右衛門が守護して来り、その子孫が代々祭ってきた。あちのおみし白山宮は漢の高祖と霊帝および阿知使主を合記する秋月家の祖神で、筑前秋月村白髪岳(古所山)に鎮座していたものを、移封に当たり八幡宮と同所に祭り社領一五石を供えた。移封の際は、舞鶴神社社掌原田年実の祖、中元寺某が筑前から守護して来て、その子孫がこれを祭っていた。天神宮は、種春が正保三年三六四六)域の右翼に鎮座の愛宕社を城の北の黒谷の山上に移し、その跡に父祖の旧領の太宰府から天神宮を勧請して、左翼の八幡宮と対峠させ社領二七石五斗を供えた。たつみや〈らおかみのかみ御城辰宮大明神は八幡宮の摂社で正保三年建立。祭神は闇絞加美神、供米六斗。そのほか勧請の年月不明であるが次の諸神社がある。はやたまのおのかみととわけのおのかみ〈〈りひめのかみ熊野神社八幡宮の摂社で早魂緒神・事解男神・菊理姫神を祭る。城主大明神祭神不明であるが古来域内の后土を祭ったものといわれている。五代種弘の病中の立願にて享保八年(一七二三〉十二月八日、城の天主台下へ勧請した(本藩実録)。げんぼのじようたベなおつな財部大明神前の財部(高鍋〉領主土持玄蕃允田部直綱(あるいは財部貞綱)を祭る。初め域内二の丸西の竹山のうちに小洞のあったのを享保五年(一七二O)種弘が再興し天神宮と同所に鎮座させた(貞享寺社帳・舞鶴神社記)。近第4編以上の神社は明治四年廃藩に際し、八幡宮、竜宮(辰宮)、熊野神社、白山宮の四社はいったん高鍋県の県社に列し、天神宮、財部大明神は高鍋県の郷社となった。更に明治七年六月、秋月家歴世の神霊を祭る大蔵神社を一社殿に合把し城名によって舞鶴神社と改めた。大正九年四月二日、秋月種樹を祭神とすることを許可せられた。大正十四年一月九日郷社に列し、昭和十六年社肢の修理増築、昭和十七年十月十日県社に列した。昭和二十年十二月二十八日、宗教法人令が公布され、宗教法人となった(宮崎県宗教年表)。(寺院)松尾山地福寺三宝院流修験宗建立の年月は不明だが開山は源忠法印、藩の祈祷所で寺領一五O石。域内の右翼、天神宮の西にあり、現在古井戸が残っているのは地福寺のものと思われる。明治三年廃寺(貞享寺社帳)。仏、14政庁と奥御股本丸には政庁と藩主の奥御殿があった。政庁には諸土の集まる大広間えっけんや、藩主が諸士一同に謁見する御書院、家老・奉行などが政務を執る家老所・奉行所・大目付所・用人詰所があった。第2図は萩原に住んでいた大工の棟梁荒川伊平が所持していた「高鍋城本丸政庁御居間及奥御殴全図」を郷土史家岩村真鉄が大正十五年に模写したものを縮写したものである。(5)太鼓櫓や〈ら詰の丸には三層の櫓の反対側、北斜面の台地に太鼓櫓があった。太鼓櫓には大太鼓があり時刻を知らせた。貞享三年、越後流の兵法学者佐久間頼母が新たに召し抱えられたが、彼の意見で時の報じ方が改められた。その点鼓の方法を藩史一班は次のように記している。リタシテタユシテユメチズ始急起、漸破、而序、漸破而、急収、乃報二時辰-。子午九点、未八、寅申七、卯酉六、辰成五、巳亥四点。今尚然。丑ダド寅i丑t子ねほ酉i申2未ミ午;ぼ" " "じ(そ午午午午の前前前前打六四二零ち時時時時方ととととが午午午午分後後後後か六四二零る時時時時六七八ぺコィコィコ時報は九つ