ブックタイトルac_cho_0005-3_takanabe
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高鍋城の堀、BJ'R叶Jつ臼JFB、ロドla城門と城内門、かある。城門は城の出入口の門で、東正面の大手門、北入口の島田門、荷入口の蓑崎門の三門がある。いずれも二層造りで、藩史一班によると櫓円であるといっている。大手門は城の表円である。大手橋を渡った内側にあり、門内に番所があずかあった。番所には牢もあり、重要な未決囚は「大手預り」といって、ここに入れて監視した。高鍋城と高鍋の地名島田門は掘の北西詰、蓑崎門は堀の南西詰、いずれも同名の橋の内側にある二層の櫓門であった。城門の開聞については拾遺木藩実録巻之三、元禄八年五月に序章二十三日大手門御門蓑崎くLり明申候蓑崎本門ハ錠をろし御用之時計り明ケくLりは御在国中明ケ六ツニ明暮六ツニ錠をろし候嶋田ハ御在国御留守共ニ本門ハたてくLりより出入夜四ツ錠をろ(古絵図〕し申事としている。本門を開くのは大手門だけで、けで、普段はすべてくぐりを聞けて使用し、朝夕六つ(六時)に開閉し、夜は錠を下ろすというのである。それも藩主の在国中だ貞享三年大手門三城門の責任者には担当の家老が別々に任命された。(一六八六)八月の例十五日大手門都合家老(内田)新之丞蓑崎門家老(手塚)刑部左衛門島田門(河野〉七郎兵衛江被仰付(本実巻四)また、同月「御門番三石ニテ百人被召出」とも記され、警備態勢を整えていた様がうかがえる。域内門には岩坂門と長峰門の二門がある。岩坂門は初め杉の本門、長峰門は矢倉門といったが、元禄十二年(一六九九)石垣を修理したとき、幕府に願い出て改称したことは先に述べたとおりである。岩坂門は二の丸の入口で、石垣と石段が今も残っている。長峰門は本丸入口で、当時の門扉のとぼそ石が今も残っている。神社と寺院η、υ種長は天正十五年移封された際、城の安泰と領内の繁栄のために、神仏の加護を求め、城の内外に神社や寺院を建立した。(神社)秩月氏の遠祖春実が勅を奉じて小野好古とともに藤原純友をめいじよ討とうとして、男山八幡宮に冥助を祈って霊験があり、天慶六年筑前国夜須郡秋月村南宮岳に勧請した。祭神は応神天皇で、配するに住吉・高し良をもってし、私月氏の遠祖春実を合記して秋月八幡宮と称した。日向移封のとき財部(高鍋)城の左翼に白山宮と並べて祭り、社領二143