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概要

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でき上がり、金沢藤右衛門が書付とともに持参して出府している。そる雨が襲来し被害は更に広がった。八月十七日に幕府へ届け出る絵図が手門のところに、塩田川の水を幅広く引き込んである様子が描かれてい町浦津とも被害が多かった。そのうえに八月一日の夜半、東南の大風れる。山名紫川が故老の話に基づいて描いた「高鍋城鳥轍図」には、大多く、高鍋城下町の町部当の家も崩れ四歳の小児が死亡し、諸小路、まちベとう田川と湿回地帯が、いわば高鍋城の外堀的な役目を果たしていたと思わなく崩れ、山石坂門もつぶれ石垣も大破した。城下町そのほかも被害がが流れている。塩田川と城堀の聞は泥の深い湿田地帯となっていた。塩二の丸へ下り、苫ぶきの仮御殴が造られた。域の外輸の築地塀は残りる(享保一八・一・二四)。掘の東側には堀に並行して北から南へ塩田川大地震は七月二十八日に起こった。本丸の御殴がつぶれ、藩主種茂はえ、凶歳には農民が願い出て菱の実を取って飢をしのいだと記録に見えO明和六年(一七六九)大地震の被害の修理。水は、いわゆる長友勘右衛門水路から取り入れられた。堀にはひし菱が生とあるように記録類も多く亡失している。には土塁を築き、その上に瓦をふいた白壁の築地塀を造っている。堀の略コ載援夷一而闘一一勤王一狭い所で二一、三い川である。掘の外側は平らな芝生の土手とし、内側第4編修復箇所!西暦|年月日橋修復1749寛延2.9.30橋掛替1761宝暦11.4.11大手門橋長J者=1766明和3. 1 0.7大手橋石垣橋1778安永7閏7 .6橋接ト替1797寛政9.2. 9近r~建話ζ1867慶応3 . 11.11橋掛脅f 1765明和2 . 10. 9島田門橋接ト替1838天保9. 1. 3島田橋門j建替同同門締切1868明治1. 2. 5f事復1698元禄1 1. 9.28長峰門同1752宝暦2. 11. 16錠暮六ツ下ろす1849嘉永2 .11. 1 2掛名ζ天保9 .1. 3蓑崎橋門締切1868明治1.2. 5掘さらえ1751宝暦1. 10. 9堀掘の石垣1779安永8 . 6. 9掘さらえ1852嘉永5.閏2. 9地震の被害修理1698元禄11 .9.28大風雨崩壊修理1707宝永4.9.11大地震の被害修理1707同10. 4波全般大風雨崩壊修理1734享保1 9.7.27大地震被害修理1769明和6.7.28焔硝蔵設置1864元治1.2.24警衛組織制定1866慶応2 .9.27門がある。全長五三OM川、幅は広い所で二四υ川、的記録に残っているものを挙げたが,た。し、堀の北西の端には島田門、南西の端には蓑崎高鍋城の東正面の防備のため、堀を弧形に巡らω堀第i表災害修覆願絵図」などによって記しておく。高鍋城の古絵図・本藩実録・明和六年の「地震高鍋城修復状況第三節高鍋城の施設表に示しておく。世小さな修復は省略し藩実録そのほかの文献に見られる主なものを第1そのほか大小の修復が数多く行われている。本候などと詳細に書いてある。塀、石垣などを示し、どこからどこまで何間崩れ142の絵図の写しが残っている。それによると築地