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概要

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くみると、領主別では、島津荘に六か所、前済院御領一か所〈都於院〉である。つまり「院」の多くが摂政関白家の島津荘に含まれ、日向圏内で六か所に及び、そのうち五か所(新納院・穆佐院・櫛間院・救仁院・真幸院)が寄郡で、一円荘(つまり完全な私領荘園)は一か所(三俣院)のみである。このように「院」の多くが寄郡であることは古代の公田としての性格を多分に残していることを示している。そのことは、藤原氏が摂政関白の地位を確保し、それによって公領が藤原氏の私領の性格を持つようになり、寄郡の成立時期も摂関政治の全盛期と深い関係を持つことを推察さぜ、寄郡は藤原氏の政権の性格と相応ずるものがあるのではないかと考えられる。弘安七年の「薩摩園薩摩郡一分郡司孫太郎忠能与惣地頭下野久経井舎弟大隅七郎久氏等相論条々」(薩落旧記)に、「島津荘三箇園削酎献内一五二本荘二玄ニ寄郡一手一私領一所務各別也、本荘者領家一国之地、寄郡者半不輪、私領者領家地頭不二相続一」とある。平安時代「寄郡」というのは、その地から納められる租税の半分を領主に進納し、半分は国の倉院に納める形をとるもので、荘園と公領の二つの性格を持つものである。新納院の場合、領主である摂関家藤原氏に半分の租税が進納され、あとの半分は新納院の倉院に納められていた。なお寄郡から納められる租税を集め、両方に折半する仕事に直接当たったのはベんMCし「弁済使」で、これは荘園を管理する地頭と兼ねる場合も多く、郡司などと同様に地方の有力者が任ぜられたと思われる。県内の寄郡であったところに今も、「弁済使」「弁指」など地名として残っているのは、この役人と関係が深い土地であろう。第2章105