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概要

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古代・中世おいては、当時の豪族の屋敷である「堀之内」もまた同様の役目を果たしていた。現在の木城町高城に地名として「平城」があり、小丸川添の地でまた近くに小字の「堀之内」があるのも注目される。新納院の寄郡化このようにして生まれた新納院は、もともと児湯郡内にあって、郡司によって管理される公領で、第3編本来は固に直接租税を納める土地であったが、それを直接管理する郡司は、大方が世襲化されていて、その権利が及ぶ土地は、律令制が空洞化し、変化するとともにしだいに私領化される傾向が強くなる。広大な荘園の成立と同様に、公領が郡司などによって、私領化されるのである。郡を単位としたものよりも、郷や院になるとその地域も狭く、本来が税の収納単位であるだけに、私領化されやすいといえる。こうして生まれたのが、郡司などの私領的性格が強いとみられる「郡家院」(「郡家院」は本来は郡街のことである)であろう。「八幡宇佐宮御神領大鏡」(以下「宇佐大鏡」とする〉には、それら「郡家院」が支配する土地が、国司などによって宇佐官に寄進され、「封郡司」によって宇佐官領荘園として開発された例がみられる。更に国司や郡司は、彼らの権利を利用して、恐らくはその地位や土地に対する利権を確保するために公領を「寄郡」(「よりごおり」または「ょせどおり」と読む)として、その得分の一部を有力貴族や寺社に寄進する。建久八年(一一九七)、鎌倉幕府が全国の国街に命令日向国図田帳して、各国の税の収納対象となる土地(主として田づでんちょうおお地〉の面積のほかその領主や管理者を調査させ、それを「図田帳」(「大たぷみ回文」ともいう〉として作成報告させた(図田帳には今はみることはできないが帳面に書き上げられたもののほかに絵図面がついていたものと思われる)。日向国のものも残っていて、これを作成する経緯が、奥書に述べられている。「去元暦年中之比、武士乱逆之問、於ニ譜代国之文書一散々取失皐雌ν然寺社圧公惣図田太略注進」とあり、源平の争乱においては、日向国の国街周辺(西都市付近)でも争乱があり役所に代々保管されてきた文書が散失したので、土地所有者である寺院や神社、庄園や公領の別などについて大略を記すとしている。104古代末期には公領や新たに開発された土地が、有力な貴族や寺院、神社の領有するところとなって、荘園と呼ばれるようになっていた。なかでも十一世紀後半から十二世紀にかけて、日向では私領化が進んだ。日向国園田帳によると、最も大きいのは、日向国総回数の四七%を占めた摂政関自家藤原氏の荘園島津荘である。次に二三%を占める宇佐八幡宮領、一八%強を占める鳥羽上皇の娘で、二条天皇の准母である障子内親〈どみ王(八条院または八条女院ともいう)の所領で、国富荘などが、その代表的なものであった。建久八年段階で、既に純然たる公領は児湯郡右松保二五町だけで全体の0・三%強にすぎなくなっていた。ここで「純然たる公領」と述べたのは、そうでない公領もあり、これが「寄郡」と呼ばれるものであるからである。今まで述べてきた高鍋町一帯が含まれる新納院については、日向国園田帳には、島津荘三、八三七町のうちの寄郡「児湯郡新納院二一O町」としてある。これがはっきり確認できる「新納院」の初見であるが、このように記載されていることは、「新納院」はこれ以前から児湯郡内のある地域の呼称として使われるようになっていて、それも恐らくは鎌倉時代以前であることが考えられる。日向圏内の寄郡さきにも述べたが、図田帳にみられる「院」は、新納院のほか六か所であるが、これをさらに詳し