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概要

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な有力者が任命され、世襲的なものであった。新納院郡司このようにして新たに生まれたのが「新納郡司」とか「鹿野田郷郡司」「河南本郷郡司」などの形で諸家の系図などにみられるものであろう。日下部姓岩切系図に、次のようにみえる。相模守近衛院御宇O盛平新納院郡司職、那珂郡司、都於郡地頭同在園司相博之土持冠者柴妙為数子譲(以下略)また日下部姓郡司家系図にも散位新納院郡司、都於郡領主地頭、国富庄河南本郷郡司、O盛平同在国司職相伝之、同奉行補任土持冠者柴妙為養子譲第七十六代近衛院御宇とみえる。「新納院」に郡司がおり、また系図の盛平の代以前に、少なくとも近衛院の十二世紀の半ば以前に、新納院郡司職は日下部氏が代々世襲して平安時代いくものになっていたことを物語っている。またこれらの諸職が、盛平以後、土持冠者栄妙(後に述べる「日向国図田帳」にみられる土持信網また宣綱)を養子に迎えて、日下部氏から土持氏に引き継がれていくことを物語っている。日向でも平安時代も半ばを過ぎると郷や院に郡司がいるようになり、律令制度上の郡司の性格がしだいに変化していく。これらの郡司は権任郡司・員外郡司・擬任郡司・転擬郡司などと呼ばれる第2章このようにして、ものである。更に郡司(郡司というのは一人ではなく、令制下では四等官があった)の下に、下級の吏員である郡書生・郡収納・郡散事・郡案主などと呼ばれる役が生まれた。そして「院」や「郷」が「寄郡」化されるに及んで、これらの郡司もまた私領荘園の荘官的性格を帯びるようになり、ますます複雑になっていくのである。それでは新納院の倉院はどこに置かれたか。その痕跡をとどめるものは見つかっていない。交通の要衝で「駅」に近く、収納物の輸送にも都合のよい所が選ばれたと考えられる。新納院の倉院陸上の輸送からも水運という点からみても小丸川流域と考えるのが妥当であろう。児湯郡の本倉院が一ツ瀬川流域の西都市周辺にあったとすると、茶臼原を越えた小丸川流域に一つの倉院は妥当なところであろうそれでは、小丸川流域のどこに置かれたかとなると当時の道路網、特に日向国府へ至る道筋を考えると、現在の木城町高城周辺と考えざるをえない。少なくとも中世期にはここに、新納院を治める役所が置かれて、恒】O、しvφιド日下部氏の流れをくむ「郡司家文書」によると、建武三年(一三三六)、南北朝争乱に際し、日下部(郡司)盛連が、武家方(足利尊氏方)に味方して軍忠を申し立てた中に、「新田右衛門佐与同仁、益戸孫四郎行政、同四郎兵衛尉秀命以下凶徒等、七月九日、寄ニ来新納院政一川城一、及ニ合戦一之間(以下略〉」とあり、この「新納院政所城」とは、前後の事情からみて、今の木城町高城を指すようである。「城」の発達していないこの時代までは、荘園(この場合は寄郡)政庁である政所も、非常の場合は放の役目を果たした。戦に103