ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

ac_cho_0004_takanabe

第二章平安時代児湯郡新納院と寄郡新納院の成立延長五年(九二七〉ごろ成立した延喜式に日向国には五つの郡と一六の駅があり、延長八年(九三O〉ごろ成立したという「倭名類緊紗」には、日向固に五つの郡と一一八の郷の名がみえる。八世紀の「律書残篇」平安時代の二六郷とすると二郷増えていることになる。児湯郡には八つの郷があるが、残念ながら今の高鍋町に当たる地域がどの郷に属していたか明らかでない。強いて類推すれば児湯郡八郷のうち現在地を比定するのが困難な二つの郷、「韓家」と「大垣Lのうちいずれかとなろう。「日向国史」には「韓家L郷を「一本に韓宅郷ともあり。(中略)其の地詳ならず。(中略)或は其の所川南村地方を以て、此の郷に娠すべきにあらざるか。大字川南字唐瀬あり、又唐瀬原あるも、或は韓家の転化にあらざるか」としている。また「大府一」郷については同様に「其の慮を明らかにせず。或は川南の南部より、木城村大字高城町阿近に当るものならんか。一説に大垣は大塚の誤写かといふ」などとしている。この時期ごろまでの「郷」は必ずしも自然村落のそれではなく、戸数によって分けられた古代行政上の郷と考えられるので、その地域を自然村落を母体として形成されてきた現在の町村とのかかわりで明らかにすることは困難なことであるが、児湯郡八郷のうち六郷までは現在地とのかかわりがある程度推定できる。「一二納・穂北・三宅・親吸・平群」の五つの郷と「都野」である。前の五郷は今の西都市内に比定できる。「親験」も後の建久図田帳にみえる「都於院」で、後の「都於郡」であ第2章ろう。この五つの郷はいずれも一ツ瀬川とその支流域に広がる比較的近距離間にあるもので、また同じく現在の西都市内にあったとみられる日向国府、児湯郡街に近かったことが考えられる。したがって農民が納める貢納物を保管する木倉院なども郡街近くにあってそれほど貢納物搬入上の不便はなかったであろう。しかし今の都農町の周辺に比定される「都野」郷になると、同じ児湯郡内でも郡街からかなり離れていることになる。諸負担収納上の不便さも大きかったであろう。「都野」郷を都農川を中心に心見川から名貫川流域に広がると考えれば、この「都野」郷と国街・郡街のある一ツ瀬川流域の中間、すなわち小丸川流域である今の木城町とその下流の高鍋町、更に北の平田川流域の川南町の地域なども、考古学上の遺跡や出土品からみても、かなり早くから開発が進み、集落があったと考えられ、この時期、この地域に二j三の郷が置かれていたと考えても無理ではない。しかし現在、その痕跡を示すものは確認されていない。延暦十四年間七月、政府は諸国の郡ごとに設けられていた郡倉を収納上の距離からみて納税上の困難ゃ、倉庫火災などの点から、郷ごとに新しく倉院を設けるべきことを命ずる太政官符を出した。ただし郷が隣接する場合は近隣二郷で一院を建てるよう追加の法令をも出している(類緊三代格)。正倉官舎蔓太政官符臆v造ニ倉庫一室新倉院の設置右被ニ右大臣宣一係。奉v勅。如v開。諸園倉庫犬牙相接。縦一倉失v火者。百庫共被ニ焚焼一。於ν夏商量。理不v合v然。今欲v改-一蓄倉一。恐努二百姓一。自今以後。新造-一倉庫一。圏相去必須二十丈己上一。地有ニ寛狭一v随101