ブックタイトルac_cho_0004_takanabe
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の施餓鬼の行事すべては、高城山田有信の単独勤仕となった。財部衆のこのような不満に対しても、地頭は直接処分できず、宮崎城にあった上井覚兼の指図を受けたのであり、所衆と地頭は直接の主従関係が結ぼれていなかったとみるほかはない。主従は鹿児島の島津義久との聞のものであり、その処分などは宮崎地方では上井覚兼にゆだねられており、地頭は代官的性格の強いものであった。この施餓鬼の行事の一つとして、山固有信が宮崎石塚の石材を運ぶのに上井覚兼に人夫の手配を依頼して建立したのが、川南町湯迫の六地蔵塔である。天正十二年十一月には、財部・高城・富田の地頭は段銭の未進で催促を受けている。翌十三年五月には、島津義久は足利氏のために領国内に段銭を課している。このときの段銭は一反当たり一O銭あてとあり、同時に肥後八代の番立が命ぜられていて、財部には大井宮内左衛門尉が覚兼の使として命を伝えている。室町時代十四年三月には、上井覚兼は、鹿児島南林寺の用材を調達するため種子島に船を出したが、このとき細島のほか財部と加田(加江田)にが舎を出すように命じている。恐らく、蚊口などの水主が徴発されたと思われ、当時既に蚊口の水主は世に知られていたのであろう。また同年四月、覚兼は、財部・高城・穂北・都於郡・曽井・清武の地頭に対して鹿児島蹴中築地役が未進であると督促している。第5章この天正十四年は、六月に義久が日向諸地頭に出陣を命じたが、軍備が整わず、義久は七月に入ってその遅参をとがめ、急きょ参陣を命じて、上井覚兼は肥後八代において義久から札聞を受けた。日向の上井覚兼および諸外城の地頭にとっては、軍役をはじめとする諸負担によって所衆との板ばさみにあって、苦しい状況にあったことが察せられる。筑後・筑前への出陣、肥後在番などが相次ぎ所衆の不満は募る。で島津氏の戦線は九州一円に拡大し、軍事力の強化に迫られる。そして、豊臣秀吉の動きが伝わるにつれて、「日向諸将をして、秀吉に内応すまじき旨の神水を飲まし」たり、「日向諸将に義久への誓霊園を提出(天正十三年)」させたりする。豊臣氏の日向下向に際して、山田有信が高城において、豊臣氏の大軍に対峠したのも、島津氏のとりえた最後の抵抗というべきであろう。方天正十五年春、秀吉は弟秀長を日向口の大将として、小早川隆景・吉川元長・黒田孝高らで日向を攻めさせた。豊後にあった島津家久は、日向佐土原に退き、その後を追って秀長の軍は、山固有信の守る新納高城を取り囲んだ。山田は勢一、三OO(三OOともある)人でろう城し、奮戦する。四月十七日、義久・義弘・家久は二万の兵で、秀長軍と根白坂(木城町)で戦ったが、反攻ならず、五月八日薩州太平寺において秀吉に降った。山田有信もまた義久に説得されて高城を去り、財部もまた秀吉の手中に入った。日向は秀吉によって、国割りが行われ、財部は秋月種長に分封されることになった。高城合戦131